まっさらな光のもとで/私と彼女

イタリア映画祭2020オンライン配信で見たマルゲリータ・ブイ主演の過去作二本の記録。


▽まっさらな光のもとで

2009年、フランチェスカ・コメンチーニ監督。ナポリの夜間中学で国語の授業を担うマリア(ブイ)は作中最初の授業の場面で生徒が誤ったことを書いたページを破ってしまうが、これは彼女がそうした部分を大切にせざるを得なくなり、やがてその大切さに生きるようになるまでの話である。

全てを自分一人で決めて生きてきた(そうせざるを得なかった)マリアが、妊娠7か月で出産したためにただ待つしかない時間を送ることになる(そういう女性が避妊をしないというのが、10年前の映画であることを踏まえても釈然としなくはあるが)。その何も決められない、何も出来ない、何も起こらない時間に彼女に起きる劇的な変化。当初よりあった共同体の意味合いも違ってくるのが面白い。

冒頭マリアと生徒達は学校として使っていた建物から追い出され、その後も教室としてあてがわれた先を転々とするはめになる。話が進むにつれ、教育や出産にまつわる、いわば国民に対する理不尽な仕打ちが見えてくる。彼らは言葉や文学を学ぶことでイタリアの文化を継承しているのに。しかもマリアは「気晴らしだからこそ」大事なのだと生徒に言うのに。いや日本の現状を顧みるに、そういう者ほど国から邪険にされるものか。


▽私と彼女

2015年、マリア・ソーレ・トニャッツィ監督。ぬるい老化ジョークを交わしつつ猫と使用人と暮らす裕福な女同士の恋愛もの。ブイ演じるフェデリカの周囲の男達が歯科医に眼科医というのには何か意味があるのだろうか。彼女はドヌーヴに顔立ちが似ていると前から思っていたところ、作中「ドヌーヴと同じ、魅力的だけど冷たい」と言われるのには、ドヌーヴもこういう役をやればよかったのにと思わせられた。

絶対あのエレベータで終わるなと思いながら見ていたらやはりそうだった。これは私の集めている「登場時には他人同士と見えるカップル」で始まる映画なんだけど、映画がそう見せているもの、作中の彼らが事情から装っているものなど色々な種類がある中、本作の場合は二人がふざけて他人ごっこをしている。共に暮らすアパートの入口から行われるそれの根底には問題が透けて見えるから、解決して終わらなきゃならない。

息子の「父親は若い女と、母親は女と、そりゃあへこむよ」にはその二つが並ぶんだと思わせられる。別れた方がいい関係と別れてはいけない関係とがあるなら、フェデリカと夫とは前者(「女はライバルにならない、その気になるかもしれないが」/「(息子の)ベルナルドは手が掛からなかったな」「六か月寝なかったけどね」…が追い打ちになるのだった)、フェデリカとマリーナ(サブリーナ・フェリッリ)は後者という話である。例えフェデリカによる蔑称問題やマリーナによるアウティングの問題が生じたとしても、すなわちマイノリティの内部では諍いが起こりやすいにしても。