エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ


映画はケイラ(エルシー・フィッシャー)の配信動画に始まる(そうか、「ズーム」はそうやればいいのかと気付く・笑)。ボー・バーナム監督がジョン・ヒューズの映画は世代的に心に響かないと話す記事を目にしていたので(「フェリスはある朝突然に」から)ふと頭に浮かんだんだけれども、あちらとこちらが混在している現在では「第四の壁」なるものの捉えられ方が変わってきはしないだろうか。作中の彼女は神に祈る時には目を閉じ横顔で表現され、卒業式の折に正当な怒りをぶつける時には相手を見ず目を伏せて物を言う。変な言い方だけれども、彼女が最も正面切って見るのは誰とも知らない相手なのだ。

導入に置かれた、ケイラの通うミドルスクールの描写が面白い。ペンの匂いを嗅ぐ者、デンタルフロスを使う者に始まり、「授業の内容」ではなく生徒がしていることが延々と描かれる(それらはほぼ「手を使ってすること」である)。今までの学校描写は大人視点だったなと思わされる。更に面白いのは決して主人公視点ではない中学生の生態がここに記されているのと同様、後のショッピングモールでの高校生達のやりとりにも短いながら高校生の生態が焼き付けられていること。かりにケイラの父親(ジョシュ・ハミルトン)が同年代の人々と一緒の場面があればそこにも同じようなものが見られると想像される。そうでありながらケイラの気持ちが映画を支配しているように感じられるのは、世代ごとのレイヤーが彼女の中に存在しているからかもしれない。

映画の終わりのチキンナゲットの食卓の距離は、娘の部屋のドアから中に入りはしない父親の保っている距離に通じるように思われた。相手との間に本来必要なもので、距離のないSNSの中、あるいは足を持たないのに付け込まれる後部座席と対照的だ。あの時ケイラは目を伏せ、くそに都合のいいこと…私が悪かった、オリヴィアには黙ってて、と言ったものだが、こうした被害は表に出ないものだとつくづく思う。その時々に自分がしたことを元に「皆の役に立つ」アドバイスをしていた彼女はその後、「自分は他人に助言するほどの人間じゃない」との言葉でもって配信をやめる。物語として、被害に遭ったことが決意を促したような形であるのに釈然としない。その後のケイラは少しだけ息がし易くなったろうが、最悪だけれども一つずつ終わっていくし何なら楽しい、と作り手が見るこの世界から、少しでもああいう、くそによる被害を減らしたいと私は思ってしまう。どうすればいいのか?