黄金のアデーレ 名画の帰還



面白かったけど、色んな要素がバランスよく盛り込まれていて、あまりに出来すぎていて、映画そのものにはそれほど肩入れできなかった(笑)美しすぎるヘレン・ミレンライアン・レイノルズが横並びになり、時に相手を引っ張りながら、背中を押しながら進む様、そこにそっと加わる、この映画の核をさりげなく表すダニエル・ブリュールがいい。


マリア・アルトマン(ヘレン・ミレン)がランドル・シェーンベルクライアン・ゴズリング)の事務所を初めて訪ねた際に強引に連れていく「ライスプディングの美味しい店」の看板に「We never close」とあるのが心に引っ掛かったまま見ていたら、映画のラスト、マリアはずっと「close」したきりだった相手を強く非難する。ドアを開けて受け入れる気さえあれば、またやれる、いつでもやれる、そういう話だった。


マリアの「シュトゥルーデルを食べながら話しましょう、私が焼いたのよ」には、はいはい私も食べたい!と手を挙げたくなった。「あなた(ランドル)のために、特別に」と言うけれど、あんなにたくさんあるし(笑)「話に退屈した」ようなのにぺろりと平らげてしまうのは、ランドルの性格ゆえか、とても美味しかったのか。こんなふうに「食べる」ことに貪欲なマリアが歩みを止めた際には、その前に空っぽのお皿がある。この時の彼女は「顔」(化粧)も服装も「戦闘態勢」じゃない。


「回想」が挿入される度(あれは、あの時にあの事を思い出していると受け取っていいのだろうか?)、マリアの賢しく勇敢な人となりと、彼女にとっての「問題」は絵を取り戻す事、そのものじゃないと明らかになっていく。あれらは一人の人間が「壊され」ていく過程であり、マリアは査問会において「元に戻りたいのに戻れないのなら、せめて自分のものを取り返したい」と口にする。やがて「最高裁が味方についた」暁には「不法収奪を認めさえすれば(オーストリアに)絵を残す」と示談を持ち掛ける。


マリアに最後に残るのは、両親を「捨てて」きたことへの悔恨である(このことが露わになる場面の直前、窓外の「幸せな家族の様子」が挿入されるんだけど、この映画、一事が万事この調子で、それが少々うざいというのはあった・笑)あの時に彼女を支えるあの胸があって本当によかった。「残して」きたという意味なら、作中にも多く映される、逃れることの出来なかった数え切れない程の人々も居たわけで、全く、これも「私情」の話なんである。当たり前である。


冒頭、姉の葬式においてマリアは「マラソンなら彼女が先にゴールした、ボクシングなら私が残った(last man standing)」とスピーチして笑いを誘う。それを言うならアデーレとマリアなら、マリアの方がずっと「生き残っ」ている。映画のオープニングは「未来を憂いて」不安げな顔をしている…とクリムト(秘すけれど意外なキャスト!)に指摘されるアデーレだが、彼女は「最悪」を知らないまま亡くなる。この映画には様々な「生」が浮かび上がるけれど、「生き残っ」た者にしか出来ないことがある。


マリアのことばかり書いたけれど、この映画の主役は彼女とランドル双方である。高名な祖父、あるいは父の事ばかり言われてきた「school boy」が、自分のやることをやり切って、その上でおそらく初めて、祖父の生に触れて涙を流す場面。ライアン・レイノルズの眉根を寄せてばかりの大仰な演技にはどうもぴんとこなかったのが、ここで初めていいなと思った。