マリア・ブラウンの結婚


ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー傑作選にて観賞。映画の終わり近く、ハンナ・シグラ演じるマリアが室内を走り回る様にこれは愛(「これから知る」相手への愛、つまりそういう類の愛)のための家なのだとしみじみ思うが、ファスビンダーの映画で中心に来る「ベッド」は一等地に置かれつつ使われずに終わる。

かつての中学校の体育館で「商売」の登録をしたマリアは「物がいいか金がいいか」と聞かれるが、母親が「最近は物が手に入る」と話す辺りまで、物々交換の様子が執拗に描かれる。マリアが商売に出るための元手とする煙草は米兵が彼女と同席の女性に向けた失礼極まりない言葉の代償としてよこしたもので、それが始まりというのが行く末を暗示しているようにも思われた。しかしそれを母親に二箱やってブローチをもらい、ブローチを酒に替え母親に飲ませて米兵専門バーで働くための服の裾上げをさせる(「水商売」に携わることを受け入れさせる)、この巡り巡りようが面白い。ハイヒールのまま机に上ってしてもらうのも(日本人以外には大したことじゃないのかもしれないけど)。

自分に目をつけた黒人兵ビルとつきあい始め、英語を学ぶ体で繰り返す「あれは鳥」「あれは鳥」「私はブラック、君はホワイト」「私はブラック、君はホワイト」「いや違うよ笑」とは最近『世界のはしっこ、ちいさな教室』のブルキナファソのパートでも見たものだけど、マリアは子どもじゃないしその程度の英語が分からないわけがない。あそこには彼女の無関心あるいは…何が表れていたんだろう。それにしても靴下だけの裸の「強く、裕福な」アメリカの男と着の身着のままといったふうの弱々しいドイツの男、という対比もあろうがマリアにとっては「好き」と「愛してる」だから後者を救うという、あの図が私にはいかにもファスビンダーらしく思われ愉しかった。

眼帯をした車掌(この映画には随所に戦禍がある)の手に小銭(作中初めて出てくる「お金」)を鳴らして落として一等客車に陣取るマリア。進行方向に座って目を閉じて喋る…男の前で目を閉じて喋るのはちょっとした賭けでありスリルであり快楽である。それによって彼女が得るものが、それに続く章に描かれる。賃金の交渉での「君の価値に見合う金額」に言い直す「私じゃなく私の仕事の価値」。後半の引っ越しの荷運び人に対する「なぜまだいるの?チップがいるならはっきり言って」なんて対応の根もここにある。しかしこうしてマリアが自身と仕事との分離を主張する辺りから、男達の社会、すなわち女は女であることを利用せねば入っていけない世界とのきしみが生じ始めたように思われた。

親友ベティとの再会の際の互いの涙は久々に「人間」に会ったから。他は「男」だから(女にとっての無標は女だから)。彼女の夫ウィリーとマリアのやりとり「彼女(女二人の更なる友達)は男の手本みたいになってる、でも男はそう見ない、現実より男の方が遅れてる」「私は逆、私の方が現実より進んでる」。男のセリフの最後が突然誰が言ってるんだというふうになるのも、加えて言うならマリアとベティは抱き合って泣いたりするくせに母親の誕生パーティでのやりとりはすげない(そう映る)のもファスビンダーらしい。こうした「ファスビンダーらしい」要素の数々に特に改めて思うことに、世の「男も女もない」論理とは大抵All Lives Matterにも通じる馬鹿げたものだけど、それに基づいているようにも見えるファスビンダーの映画は風通しがよく痛快である。つまるところ不要なのは女への余計な目線なんだろう。