随所にこの映画の何たるかが表れている…とは随所が映画そのものなんだから奇妙な物言いだけど、そう思いつつ見終わった。エンドクレジットでエリザベートを演じたヴィッキー・クリープスがエグゼクティブ・プロデューサーでもあったと確認し彼女が踊るのを目にして何だか腑に落ちた。あの程度のもので女じゃなくなることができて自由に踊れる、その軽やかさ(軽さと見られてしまうかもしれない)をクリープスは持ち続け表現していたんだなと。作中朝に発つ男達を窓から見るエリザベートはあちこち行っているのにどこへも行けない。それは女であることと幸せであることとが両立し得ないことと同義であり、最後に行くのはあそこしかない。
自身の容貌をよく言った者(しかしそうした記憶とははかないものなのだ)にスミレの砂糖漬けを渡す公務の晩、犬を撫でながら床に就く、犬はいいけど何てつまらないんだ、気がくるいそうだと思っていたらやはりそのようで、エリザベートはヴァレリーを起こして馬を駆り娘を病気にしてしまう。第一の侍女へ言い渡す内容といい(この彼女は結局「共犯者」となるのだった)、この映画はエリザベートの身勝手さ…それはうまくいかなさとも言えるんだけど…を描いているのがよい。夫であるフランツ・ヨーゼフの「若い頃は楽しんでただろ」にも、女性には「若さと美しさ」をアイデンティティとする生き方ばかりが提示されデフォルトとなっているという、今なお続く大きな問題が窺える。自分を見ない…寄り添う小舟では同じ遠くを、ベッドではアイマスクのルートヴィヒ(マヌエル・ルバイ)と一緒の時こそ気が楽なのに、それを愛とは捉えず、指導員や夫には自分を見るよう求めるところにも女の身に今もある矛盾が表れている。
体重を気にして物を食べないエリザベートの口にルートヴィヒがチョコレートソースを注ぎ込む場面がよかった。私には同じ沼に住む者による荒療治にも見えた(といって少ない体重を求められはしない彼はエリザベートより抑圧されていないと思ってしまうわけだけど)。子どもの頃にどこかで読んで心に残っている、オードリー・ヘプバーンは『ローマの休日』の撮影でジェラートを食べるのを嫌がった、体型に気を遣っていたから…という文が頭に浮かび、事実か否かはともかく私にはそれが映画というものに纏わる抑圧のイメージの源泉になっているんだけど、この作品には少なくともそうした齟齬はないような気がして、やはりこれは映画について考えてしまう類の映画だなと思った。悪いことじゃない。