岩波ホールで開催されているジョージア(グルジア)映画祭にて二作を観賞。
▼「少年スサ」(2010/ルスダン・ピルヴェリ監督)はウォッカの密売の運び屋として働く少年スサの物語。見てよかった…としか言えない。何となればこの映画は、スサが根っからの悪人ではない大人に再び泥水に押し倒されてしまうラストシーンにも表れているように、子どもを不幸から救い出すには大人が本当に本気にならなければダメだという主張に他ならないから。
オープニング、ガラス瓶を叩き潰して万華鏡を作るスサの姿に、何とも「かけら」めいた映画だと思う。背後にこれまでが窺われず、誰かに教わったのか否か、誰かにあげるのか否か全く分からない。映画が進むにつれ想像し得るようになるが、彼の生活こそかけらの寄せ集めのようなものだと思われてならなかった。笑顔を見せてくれる、言葉を掛けてくれる大人はいるが恒久的でない。何にも組み込まれていない。彼が万華鏡を通して市場や列車を見るのは、ルーティンから外れた新鮮な何かを求めているように思われた。
警察に捕まるも解放されたスサのウォッカをさばくため、常日頃から面倒を見てくれる同業の青年が、普段は会わないようにしている同年代の友人宅に連れて行く。酒を買い、飲む側の彼らのところには、酒に煙草、恋人や仲間との語らい、自分で演奏するギター、それからピアス、すなわち自由、文化、遊興がある。スサと青年がその家に向かう際に水たまりを構わず歩いていくのは二人が希望と無縁だからだが、彼らの輪にひととき加えてもらったスサは、父が出稼ぎから帰ってくる日、一張羅で水たまりを跳んで避ける。しかし結局は周囲がよってたかって、何の気なしに、彼を泥の中に押し戻してしまうのだ。
▼「デデの愛」(2017/マリアム・ハチヴァニ監督)は山村に生きる女ディナの物語。冒頭、望まぬ相手との結婚を強いられた彼女は長椅子に顔を埋めるしかなく(祖母は孫娘に布団を掛けてやることしか出来ず立ち去る)、数年後には荷物をまとめながら「どこへ行けばいい」と叫ぶ。見ながらずっと、行き場の無さに息が苦しかった。こういう行き場の無い状況はどこにも(私の暮らす町にも、勿論)ある。私は今は安定しているから、自分のできること、具体的には援助団体への寄付をもっとしようと考えた(今もわずかながらしているけれど)。
オープニング、銃弾の跡の残るトラックで山道を戻る暗色の服の男達と、冷たい川の流れで山羊の体を洗う色とりどりの服の女達。この映画祭のリーフレットに使われている写真の場面しかり、この映画では女は動物=生、男は死とはっきり結び付けられている。戦争から帰ってきた男と村で生活していた女が再会することで、家父長制の歪が表面化し男達の命が失われる。ディナの婚約者は自分を受け入れない彼女を平手打ちするも「好かれていないのに結婚できない」と家族に相談するが認められず自ら命を絶ち、彼女と愛し合った男は略奪された妹を巡って殺される。こうした悲劇を「全て女のせいだ」(女が我慢すればすむことだ)と言われ、出戻ってきた妹は「全て男がしたことだ」と激しく返す。女が我慢しなかったために死人が出るなんて、随分おかしな仕組みじゃないか。
全編を通じて、ジョージアのスヴァネティ地方が色濃く映し出される。美しい山々、澄んだ日差しなどの自然、素敵な衣装や美味しそうな食べ物、儀式の数々といった文化。しかし耐えている人がいると思うと見ていて心が晴れない。伝統も使い様である。物語は「お前が好きだ、全てお前のためだ」とディナを略奪し「都合のいい時だけ伝統を使う」と拒否された男が、伝統とは反する行為に命を掛けることによりある命を救い、彼女の許しを得るのに終わる。子ども達の笑顔が多く収められているのに、良い方へ変わってゆく希望と大人としての責任を感じた。