セリーナ 炎の女



スサンネ・ビアの2014年作を「未体験ゾーンの映画たち2018」にて観賞。


けぶる山脈とそれを見やるブラッドリー・クーパーの顔、「Serena」と出るタイトルにどんな内容だろうと思っていたら、彼演じる主人公ジョージが悪気なく、自分を愛した者を破滅に追いやる話だった。作中の前哨戦がデヴィッド・デンシック、本番がジェニファー・ローレンス。彼を愛さなかった者だけが光の中、未来へと発つ。やはり舞台が昔であっても、女が喋らない映画はダメだと思う。「彼女」が汽車に上りかけながらジョージに意思を持って語る時、世界がそれまでとは違って見えるもの、こうもありえるんだって。このような話において「父親とは精子を放った者のことではない」という主張がなされるとは思っていなかったから、その場面には驚き嬉しかった。


当初ジョージは雇い人のレイチェル(アナ・ウラル)に手を付けたり自分に入れ込んでいる相方ブキャナン(デヴィッド・デンシック)につれなくしたりと、自身としては筒がなくやっていたのが(一応言っておくならば、仕事の場においては身を挺して臨む真面目な人物である)、ジェニファー・ローレンス演じるセリーナを見たことにより知らず人間関係の均衡を崩し、周囲をアリ地獄に引きずり込んでしまう。だからタイトルが「セリーナ」なのだ。ブキャナンと彼の「お前は変わった」「お前こそ変わった」というやりとりはそこだけ抜き出せば何とも陳腐だが、作中ではとても奥行を持って在る。ブラッドリーのあの、無神経(な人間をうまく演じられる)顔がうまく活かされており、いいキャスティングだと思った。


物語の舞台は1920年代のグレート・スモーキー山脈。一帯を国立公園にする計画に、製材所を経営するジョージが反対する(父親が同業だったセリーナもそれを熱烈に支持する)というのが作中大きな要素としてあるので、この映画はあるいは、時代遅れの者が消えゆく話ともとれる。作中ジョージが寝ているセリーナを見つめる場面が二度あり、一度目はその背中、二度目は実に「横になっている」ところだが、人間は眠っている時「動物」に見えるものだと思った。cougarを追い求めるジョージが冒頭言われる「まだいるとしたら、そいつはやばいやつだ」「もしそいつが相手をやるなら、心臓を一撃だ」というのは一体何のことなのか。