グレイテスト・ショーマン



P・T・バーナムの伝記じゃないのは勿論、サーカスや家族の話でもなく、ヒュー・ジャックマン演じる主人公が貧乏人という出自から逃れようともがく物語だった。そういう観点では面白かったけれど、この映画は彼の貧乏人という出自と仲間の(見世物としての)特徴を同等として扱っているので、「見られる」ということについてひどく無神経である。ショーにおいて特に見世物にならないバーナム自身と、見世物である(「君を見れば人は笑顔になる」なんて言われる)仲間が、大した過程も描かれないまま「家族」になるのは釈然としない。


貧乏人の出自とは、バーナムの娘がバレエ仲間に「ピーナッツの臭い」と蔑まれるように、外見を変えようと付いて回るもの(だとされている)。そんなやつらを足蹴にして飛翔するためのいわば呪文が、「From now on」なんである。彼の「ぼくは自分の耳じゃなく他人の評判を信じる」とは何とも強烈なセリフ、妻チャリティ(ミシェル・ウィリアムズ)には決して分からない彼の心の中の堅固な部分であろう。それが多少、溶けているように感じられたラストシーンはいいなと思った。


オペラ歌手ジェニー・リンド(レベッカ・ファーガソン)の登場(「耳じゃなく…」と言ってもバーナムは「本物」を引き当ててしまう)とその初舞台が、物語のターニングポイントである。フィリップ(ダンスシーンは流石のザック・エフロン)がアン(ゼンデイヤ)の手に手を伸ばすという行為にえっ今?と違和感を覚えていたら、これは二人の男が、大切な人の手を握るのではなく「離してしまう」シーンなのだった。


バーナムの周りの人間が皆、彼の物語に都合よく動いているようにしか見えない、個が無い、「これが私」なんてことをテーマに打ち出しておきながら…と書いていて気付いたんだけど、ミュージカル映画って「その場」にいる人々が(多くの演出では)一丸になっているように見えるから、元より個が消えて話に奉仕しているように受け取れてしまうものなのかもしれない。更に好みを言うなら、ショーを扱う映画をミュージカルにするのは好きじゃない。作中初めての(実際に行われる)ショーの場面、「ミュージカル」としていわば誇張されてるのか否か分からないでしょ、ああいうのが苦手。