ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目ざめ



なるほどこういう「病気」ものもありかと思った。これは愛する者に病気になられた者達が「それ(=病気に象徴されるもの)」を乗り越え目覚める話である。主人公クメイル(クメイル・ナンジアニ)が「ごめん」でその場を乗り切ろうとするほど、エミリー(ゾーイ・カザン)の両親、ベス(ホリー・ハンター)とテリー(レイ・ロマーノ)が話し合わないまま娘を転院させようとするほど、つまり彼らが核心部から逃れようとすればするほど、病気は心臓に近付き死がにじりよる。


「コメディアンの主人公が恋人との関係を真摯に考える」という観点では、私は本作よりも「スリープウォーク・ウィズ・ミー」(感想)の方が好きだけど、この二作、実は同じことを言っている(考えたらこの映画、「スリープウォーク・ウィズ・ミー」と「ドント・シンク・トワイス」を足したような内容だ)。自分の欲しいものが分かっていながら逃げてばかりいると、人生を棒に振ってしまうと。だからこの映画の「勘当」のくだりは、「家族はいつだって、いつまでも家族」ということを主張しているわけではなく、家族も大事で他も大事なら、今すぐそいつらにそう言ってみろよ!と背中を押しているのだ。


鶏と卵のどちらが先か分からないが、この映画では、ジョークが通じ合うということと一緒にいたいということとが等しい。「空気を入れる偽のマットレスだと思わなかった」「エアマットレスだって本物のマットレスだよ」、「おかしいな、つまらない映画を見た時のあくびが出ちゃった」「いや面白いよ!」、「このB級映画、何人の女に見せたの?」「それは…その映画はB級じゃない」なんてやりとりで笑えるのが、一緒にいたいってことなのだ。クメイルが母親の「(たしなめる意で)またふざけて」という口癖を嫌うのは、それが「一緒にいたい」と思い合うことを拒む態度に感じられるからである。


どちらかが一緒にいたくなくなると(「もういちゃつきたくないと気付いた」というのもこれと同じだろう)、二人の間のジョークは不発に終わる。搬送先のエミリーと飛んで行ったクメイルの「朝食を抜いたから倒れたってだけ」「朝食は大事だもんな」の後の沈黙のように。昏睡から覚めて両親とは早速冗談を言い合っている彼女が、彼の「そこまで来たから寄った」にはにこりともしないばかりか「あなたは面白くない、悲しくなる」と口にするが、時間を置いた再会時にそのジョークを繰り返すのは、あのジョークからやり直したいという気持ちの表れなのだ。


ゾーイ・カザンが演じるのは「ルビー・スパークス」同様、難役である。殆ど寝てるんだから(笑)でも初めてクメイルの部屋に入った時の「荷物を置いてもいい?」でどんな人だか分かった、何事も、はっきりさせないうちは「当たり前」だと勝手に思わないようにしているんだって。彼女のこの性分によって、周囲の人々は目覚めることが出来たんだよね。「プレッシャーをかけるかもしれないけど、あなたに夢中」と、「Welcome Home」パーティーで愛のプレゼンをされた後の「あなたを家族と引き離したくない」も確かに通じている。クラブで声をあげずにいられないというのは母にも似ている(笑)


映画ではクメイルに代表される、移民の二世以降のありかたが面白い。彼らの世代は医者、エンジニア、弁護士の親の元に生まれて自らもそうなることを求められている。見合い相手の、「両親が留学で来て帰らなかった」「パキスタンに行ったことは無いけど家ではウルドゥー語で話してる」女性や、クメイルの母親いわく「大人気」だが自身の母親からは「このままじゃ腐ったりんごになる」と脅され、「仕事仲間が彼氏の愚痴を言ってるとボディスラムをくらわせたくなる」なんて言ってた彼女達のドラマも見たくなる。ゆくゆくはそういうのも作られるよね。


クメイルが熱心に取り組んでいる、「パキスタン」をテーマにしたステージは全然面白くない。授業であれプレゼンであれ、文化を扱うといってもそこに「自分」が無ければつまらない。エミリーの「あなたがどんな人が知りたかった」という感想は実に適切なアドバイスでもある。あなたの国じゃなくあなた、が求められている。映画の終わり、「自分」を出そうと決めた彼は全てをやり直す。自らの写真やエピソードをふんだんに入れた舞台のタイトルは「Citizen Kumail Nanjiani」。


クメイルの上記の舞台について仲間が意見しないのはなぜなのか分からなかったんだけど、「サム」のくだりからして、身内では案外言えないものなのかもしれない。仲間内じゃなく外部からの刺激によって変われることもある、というのは、当人でなきゃ分からないことばかりの夫婦仲が「home」から一旦離れる切っ掛けを得て前進する、医者のような専門職であっても足首をひねったなんて些細な話が参考になる、というのもきっとそうだ。