スリープウォーク・ウィズ・ミー/ジョージア


アメリカ映画が描く『真摯な痛み』」をテーマにした特集上映にて、「スリープウォーク・ウィズ・ミー」(2012)と「ジョージア」(1995)を観賞。これまで見た中で一番の、最高の二本立てだった。


まずはこのイベントのありかたに、私の長年の謎がとけた(って変なことを言うようだけどこれがしっくりくる、謎がとけるというのは気付いて進むことだから)。でもってこれまた変なことを言うようだけど、どう生きるかによって好きな映画が決まり、好きな映画によって生き方が決まる、その循環が映画を見るってことなんだと思った。



▼「スリープウォーク・ウィズ・ミー」はマイク・バービグリア演じるコメディアン、マット・パンダミグリオが運転席から語り掛けてくるのに始まる。程無く彼は車を自分で運転するようなやつじゃないと分かるので、何がどう変わったんだろうと見ていくことになる。


マットは父親に送ってもらう道すがら「この車をやろう」と言われても後部座席から恋人のアビー(ローレン・アンブローズ)に伺いを立てる。更に遡った回想シーンでは常に彼女の助手席にいる。時が後ろに進んで親戚の結婚式の後、彼が初めてハンドルを握ると助手席の彼女の姿はぼやけてしまう。


マットは車を一人で運転していくタイプの人間であり、他人と一緒じゃ思うような道をゆけない。これは、誰かとの関係における誠実さは人によって違うから厄介だけど、勇気を持って実行しないと「互いに人生を棒に振ってしまう」という話である。「あなたを傷つけてしまうかと思って」だって!というあのセリフ、身に染みるじゃないか。


上映前にも携帯電話を切っておくよう言われたけれど、映画自身もオープニングで同じ注意をしてくる。このシーンで観客が携帯電話を取り出してチェックしたところで全然おかしくない。新作落語でも巻き込み型というか参加型のものがあるけれど、それが面白いかどうかはものによるものの、今更ながら映画でも全然ありだなと思った。


気になったのは「Matt Pandamiglio」という主人公の名前(姓につき、ルーツは分からないけれど作中の人々にとっても聞き慣れないということは描写されている)が「Mike Birbiglia」に似ているということ。一つには「自分」を描く時には名前も近くなるものだろうかというのと、もう一つ、たまたま先日気付いたんだけど、ロールプレイなどをする時、私は自分の本名を使いたいんだけど、それはなぜなのか、通じるところがあるのかなっていうこと。



▼「ジョージア」は男の運転する車の助手席で眠りこけるジェニファー・ジェイソン・リー演じるセイディの姿に始まる。「運転する?」と言われても起きない彼女が夢に見ているのは、かつて姉のジョージアと二人であの家で、揃いの衣裳で歌った光景だ。


「スリープウォーク・ウィズ・ミー」になぞらえて言うならば、ジョージアメア・ウィニンガム)とジェイク(テッド・レヴィン)は一つの車を必要に応じどちらかが運転して同じ道をゆくタイプの夫婦であり、セイディと結婚する若いアクセル(マックス・パーリック)は一人で「ヴィンテージ・カー」を磨きあげるタイプである(そう考えると、食卓でのセイディの父と彼との会話も面白い)。


これもまた、自分なりの誠実さに生きる者の話なんである。終盤、セイディがチャズマンの家で結局は薬をやってベッドにいる場面で不意に分かった、彼女がそうするのは、例えばアクセルへの「実家に帰ること、いつ決めたの」なんてあの言葉、ああいうことに思い至ってしまう、口にしてしまう辛さから、そうすることでしか逃れられないんだって。


セイディのパンクファッションも楽しいけれど、姉の服を借りることが多いのも心に残った。ヴァン・モリソンの「Take Me Back」を歌う前に客席に向かっての「素敵な光景」というセリフに、誰かの服を着るのはその人と同じものを見たいからだと思った。しかし病院での「(ローブについて)汚してもいいのよ、あげたものだし」や家での「何でも持っていって」に彼女は「やめて」と返し、その後のやりとりでとうとう悟る、二人の見るものはやはり違うのだと。そして、あの日は絶対に戻ってこないけれども、歌っていく、生きていく、というラストシーン。



「寒くて凍えそうだ…コーヒーでもどう?」


(腕を組んで歩き出すアクセルとジョージア、なぜかこの場面にすごくじんとしてしまった。これって「ジェイクとセイディ」のいわば「裏」の組み合わせなんだよね)