パリ13区


終わってみれば瑞々しい二つの恋が交差しながら進んでいく物語であった。一つは一週間続いたセックスに始まり葬儀の日曜日の「愛してる」に至る恋。たまたまセックスした相手をあんなふうに好きになることってほぼ無いと経験から思うから、あの浮かれようが羨ましい。ヘテロの女性が誰か男の人を好きになれるって運がよく幸せなことだ。しかしこのエミリー(ルーシー・チャン)は他人とうまく交流できないのだった。よかれと思ったおふざけは通じず、相手の意図が汲み取れない。バスルームのごめんなさい、ごめんなさいが残る。

もう一つは会話を重ねたあげくに公園の日曜日のキスで息を吹き込んでもらうのに始まる恋。このノラ(ノエミ・メルラン)が被る害は「アンバー・スウィート」(ジェニー・ベス)の「金髪のウィッグをつければ誰でも一緒に見える、奴らの目は節穴だね、ただ人を傷つけたいだけ」がずばり言い得ている。終盤エミリーの祖母が滞在している施設のテレビから流れてくる「(ブリジット)バルドー神話がマスコミによって作られて来た、金髪の愚かな娘だと」に示唆されている、「何々のような女」に対する悪意による苛めである。

オープニングの一幕にクリスティアン・ペッツォルトの「水を抱く女」の一場面を思い出した。テーマになっている土地で仕事のお喋りをしてみせる女。尤もこちらのエミリーは全くもってふざけておりそれが好ましいけれど。カミーユ(マキタ・サンバ)は彼女のこれに笑い、ノラの流暢な不動産の売り込みに惚れ、妹エポニーヌのスタンダップに驚かされと、終始女達のトークを聞く役回りである(そして「感想は要らない」)。彼女達のそれはちょっとした、生きる手立てである。

パリ政治学院を卒業するもコールセンターで働き、更にはクビになり同郷のコミュニティに閉じこもるようになる台湾系のエミリー、復学するも嫌がらせに押し潰され不動産業に戻るノラ、物売る女のどちらも、いや誰の行く末も明るくはなく、輝いているのはただ恋だけ(恋していないエポニーヌだけが希望に満ちているとも言える)。そのことに対する姿勢がどうにも少しぬるいように感じられて、私は「セリーヌ・シアマの映画」「オディアールの映画」の方が鮮烈で好きだなと思った(もう一人の脚本家レア・ミシウスは「ダブル・サスペクツ」のみ見たことがある、これも結構面白かった)。