これこそ見た人により反響が異なる映画だろうけど、私は前日のニュースで知った最高裁の判決を重ねてしまった。正社員として働くのは「正当」、お金を払って住むのは「正当」、でもそうしたことの上に位置する何らかは正当な人々とそうあれない人々との格差をどうにかしなきゃならないんじゃないかと。
今年見た「行き止まりの世界に生まれて」「Mid90s」(共に2018年作)の二本でも本作(2019年作)でも、少年や青年によってスケートボードが壊される。しかし状況や描写される意味は全て違っており、この映画では父親に隠れてスケートボードに乗っている主人公ジミーの足の下のそれは何らかのメタファーのように思われた(そもそも彼はそれを「手」で壊すのだ)。そんな彼が最後に叔母にふと漏らす「自分を特別だと思いたくて」には、あなたは特別なんだとの呪文だけで放っておかれる弱者の立場を思った。それじゃだめだと考えた親友、いやパートナーのモントの言動には、高所に上りっぱなしの友の周りに分厚い温かいマットレスを敷き詰めて大丈夫だよと言ってやるような際限ない優しさを感じた。
この映画に描かれている「記憶」の最たるものは、ダニー・グローヴァー演じるモントの祖父の生活のように私には思われた。目が不自由になった彼は馴染んだ家に暮らし、テレビの映画に誰それが出ているという孫の解説を聞き記憶の中の役者を見る。「美人」だってそう、頭の中のそれを見る。ダニー・グローヴァーと言えば、「僕らのミライへ逆回転」(2008)では再開発のための立ち退きを迫られているレンタルビデオ屋の店長役だったものだ。ゴンドリーの性格もあるけれど、私はこの映画からメジャーどころの不動産映画が変わってきたと感じていて、今回の映画も、もっと「大きな」問題が根底にあれどその流れに入れた。
同時に、私がかつて立ち退き映画を集めていたのは、それらの映画が大抵は「正当な権利」を無情に求められることとの闘いを描いていたからなんだとこの映画を見て改めて思った。でも感覚としてはそれこそ「僕らのミライへ逆回転」あたりから、フィクションにしたところで軽々しく扱えなくなってきた。10年か20年前からタイムスリップしてきた私がこの映画を見たら、モントが内見に現れる場面で彼が作家として大金を得て邸宅を買うんじゃないかと結末を予想するかもしれない。昔はそういう、いわば奇跡もあったからね、映画に。