ラン・オールナイト



「アンノウン」「フライト・ゲーム」に続く、ジャウム・コレット=セラ監督×リーアム・ニーソン主演作品。「Taken(96時間)」シリーズの「娘」に対してこっちは「息子」か、まあそのジョエル・キナマンの顔を二時間見るだけでも…と思いきや、Takenシリーズに比べて遙かに面白かった。美しい瞳を持つリーアムとエド・ハリスが、思い出のレストランで互いの瞳に絡んだ会話を交わすなんてシーンの嬉しいこと。


(以下「ネタばれ」あり)


冒頭、元殺し屋のジミー(リーアム・ニーソン)が酔い潰れての眠りからはっと目覚める。年下の仲間に「お前、屁こいてたぞ」とからかわれ「寝てたから知らん」。何気ないこのセリフに、この時点での彼の立場と生き様とでもいうようなものが表れている。店でも家でも起きぬけに煙草を口にしないといられないのが、とある場面で咥えて火をつけようとしたところで久々に人を殺すはめになり「覚醒」する。それ以降、彼が煙草を吸うことはない。
「サンタクロース」を渋々勤めるくだりなんて(全く勤まってないけど・笑)、見慣れたアクション映画じゃちょっとした笑える場面になりそうなものだけど、リーアム映画じゃそうならない。やさぐれての冗談が、昔馴染みのショーン(エド・ハリス)以外の皆に、特に息子のマイク(ジョエル・キナマン)に、嫌悪感を抱かれてしまう。今はああいうのを「ギャグ」にされても不愉快なのでその方がいいかな。


本作には、数多のアメリカのアクション映画で見てきた舞台や状況がこれでもかと詰め込まれている。カーチェイスに始まり、地下鉄の駅のホーム、トイレ(ドアが倒れるとどうしても笑ってしまう)、団地(窓からのヘリには違う意味で笑ってしまった)、酒場(の地下のボスのオフィス)、停車場、湖畔の林。
見ているうち、こうした「全出し感」、いや「打ち止め感」とでもいうようなものは、闘いに明け暮れた末にくたびれているジミーとショーンの、その無為さを下の世代に伝えたいという気持ちと最後に滅茶苦茶やりたいという気持ちとが混じっての爆発のように思われた。しかし一番かっこいいのは、ジミーとショーンが作中最初の殺人を行う場面。前者は息子を殺そうとする者の息の根を瞬時の判断で止め、後者は息子を死から救えなかった者を計画的に、執拗に刺しまくる。


ハーディング刑事(ヴィンセント・ドノフリオ)が「検事まで買収されている」と言っていることからしても、ショーンの「仕事」の内容は「マフィア」そのものである。彼自身の「時代には逆らえない、私は合法的な実業家だ」というおそらく本意からのセリフは「近年は『合法的』であることが求められる」ということを意味するけど(彼は「時代の流れ」を「肉屋がファミレスになる」と表現する)、作中にはそうした要素は見られないので、そこのところがよく分からなかった。ともあれ(「現実」の)歴史も映画も常に過渡期であるというのは確かだ。
この映画は、殺し屋が母の許で認めた告白が「良心」の手に渡るということで物語の決着を付ける。世の「悪」は滅しなくとも、ある悪は断たれ、未来への希望が生まれる。マイクの妻が、久々に「戻って」きた夫の肩に無言で寄り掛かる姿が印象的だった。


先週マイケル・マンの映画を見たところだから、本作の最中にも「銃撃戦で死にゆく人が最後に目にするもの」が気になってしまった。明け方の停車場で、逃げようとするショーンをジミーは背後から撃つ。「若い頃にマフィアを夢見て」成功を収めた男が最期に見るのが停車場の一角の石ころか…と思いきや、ジミーは彼を抱き起こし、親友が死ぬ前に目を留めた景色に自分も目をやるのだった。
更には「スター・ウォーズ展」に出掛けた後でもあったから、リーアムを狙う殺し屋の赤いアレが、シス側のライトセーバーにも見えた(笑)まあアクションについては、スターウォーズに比べたらこの映画の方が随分と面白い。