イスラーム映画祭6エクステンデッドにて観賞。2018年イエメン、アムルー・ガマール監督作品…と言ってしまえばそれまでだけど、前説によると、本作は現在映画産業のない同国においてイエメン人によってイエメン人のために作られた初の商業映画であり、劇場がないため当初は結婚式で上映されていたのだそう。イエメンは戦禍や飢餓で人々が苦しんでいることを世界に「忘れられた国」であり、この映画には若い世代の願いがこめられているという話だった。途中と最後に流れる曲の歌詞は、国に向かって「一番近くにいるぼくになぜこんなひどい仕打ちをするの、ぼくのことを忘れないで」と訴えていた。若者達が少しでも自分の思う通りに生きられるよう頑張っている物語に私には受け取れた。
内戦を挟み婚約してから5年も結婚できずにいるラシャーとマアムーン。やっとのことで式にこぎつけんとするが思いがけないことばかりで駆けずり回るはめになる。予算が足りなくなりキャンセルに出向いた式場のオーナーは喜劇調の場面で「戦争が起きたのか、誰かが病気になったのか、死んだのか」、経営している店の賃料未払いで訴えられたマアムーンに対して裁判長は厳しい場面で「内戦が終わって3年も経ったのにまだそんなことを言っているのか」と口にするが、戦争は全然終わっていないじゃないか、あなたたちのような年長の男性、もちろん女性にとってもまだ続いているじゃないか、という話である。
ラシャーの「あなた(マアムーン)と結婚するしか家を出る手段がない」とは裏を返せば強制結婚がありうるということで(婚姻が危うくなった時、彼女の味方である兄が「家族の同意がなければ結婚できないから、父さんが旅行中ってことにしておれが同意したらどうか」などと言う。ちなみにこの後の「これはおれの意見、あとは二人が決めてくれ」など、男性のセリフにつきなかなか考えられていた)、中盤からはラシャーの一家に恩を売り若い彼女を二人目の妻にしようとたくらむ親族の脅威から逃げる話になるので、コメディ調であれどどうしても怖くて笑えなくなってしまった。ただ面白いのは、このことが二人が結婚後に住むはずだった場所を失った理由と繋がっているところ。話の発端は、マアムーンの叔母さんが「二人目の妻」になるのを拒否して実家に戻ってきたことなのだ。マアムーンの母親を中心に家族でハグし合う姿が素晴らしかった。
若い二人がふうふう言いながら高所の家を見に行く場面には、ジェーン・フォンダとレッドフォードの「裸足で散歩」も思い出し可笑しくなってしまった。そう簡単に住むところは決まらないが、ともあれ当地の不動産事情が垣間見えるのが興味深かった。作中何度かカメラが引いて広く捉えられる瓦礫だらけの町では使える土地や家が限られており、賃料の割にはハード面は勿論インフラも全く整っていない。他国へ逃れた人の土地を奪っただとか他国から逃れてきた難民が部屋を借りただとかいう話が出てくる。ラシャーが「瓦礫になってから全てがダメになった」と言うあの「家」は戦争が終わっていないことを表している。それでも二人が市場で食事し商品を見、最後に「お楽しみ」と消えていくあの場面の活力に満ちていたこと、見終えて私こそがそれを分けてもらったような気持ちになった。