ファイター、北からの挑戦者


原題「파이터(Fighter)」。脱北者であるリ・ジナ(イム・ソンミ)が「私の闘いは始まったばかり、これからも闘い続ける」のは物語の最初から最後まで変わっていないが、愛があれば違う、笑うことができるという話である。テス(ペク・ソビン)の「これからも好き」について、そんなもの変わり得るじゃないかと思うのは贅沢なことで、今そうなんだという気持ちにだって重量がある。彼がおれ、何でこんなことしか言えないんだろうと自嘲する「明日会いましょう」にも同じ心が宿っている。

韓国からフランスに渡ったユン・ジェホ監督の前作「マダム・ベー 脱北ブローカーの告白」(2016)には、北朝鮮出身のマダム・ベーが出稼ぎのつもりが農村の嫁として売りとばされた中国でブローカーをしながら暮らした後にタイを経由して韓国へ渡るまでが収められていた。南へ着いたら終わりではなく「目標を持って頑張ってもうまくいかない」と日々をこなしていた。このドキュメンタリーからは、中国を経て脱北するのは女性が殆どであり家族を呼び寄せるのは難しいこと、家族間に複雑な関係が生じる場合があることが分かる。この作品でジナと母親の和解が大きな柱になっているのはむべなるかなと思う。映画の終わりに二人が交わす目線には希望がこめられている。

支援センターの不動産担当者による性的嫌がらせは若い女がよく遭う類のものだが、ジナの受けるそれは「家長」や更にその上の「国」の庇護がない者の被る害という意味合いも大きいように思われた。相手の機嫌を損ねて立場がより危うくなった時に埋め合わせをする手段は金しかない。相手に叩きつける際には多少せいせいするかもしれないが、そもそもそうした金銭自体にむなしさがつきまとっているはずだ。母親が渡そうとして受け取られずこぼれ落ちるあのお金にジナはそれを感じたのではと考えた。

ボクシングを通じてジナが得たものは「家」ではない。テスと館長(オ・グァンロク)と三人で食卓を囲み酒を飲むのは道端の席やジムの一室といったほんの世界の片隅の、弱いが温かい灯りのもとである。そこには彼女に何も押し付けようとせず、ただ椅子を引き寄せたり「泣いてもいい」と声を掛けたりするいわば待ちの優しさがあった。

「マダム・ベー」の韓国パートの始まりは建ち並ぶビルに重ねられた大きな声だった。「私の祖父は傷痍軍人です、誰が銃弾を放ったのでしょうか、共産主義の蛮行を忘れてはいけません」。そうしたプロパガンダがジナの受ける差別、直接的な言葉なら「韓国人でもこんなところ、住めないよ」「あの子、脱北者なんだって」などを引き起こしている。それがボクサーとなればポスターにでかでかと「脱北ボクサー」と書かれるのだから、当人の意思であろうとどうだろうとおかしなものだ…思えばこれに似たことは世界中にある。