アウロラ


フィンランド映画祭2019にて観賞。2019年/フィンランド/ミーア・テルヴォ監督作品。

映画は朝方、男の部屋から裸で逃げるように帰るアウロラ(ミモサ・ヴィッラモ)の姿に始まる。よくあるオープニングだ、この一幕から彼女がセックスを、敷衍してその他のことも自分の意思で行う人間だと分かる…んだけども、昨今果たしてこれって男性にも分かるものだろうかと考えるようになった(そうしたら中盤彼女のセリフによって念押しされるのだった、作り手も同じように考えているのだろうか)。その後の、店で友人のキンキーが靴を脱いで臭いを嗅ぐかと思えばアウロラもブーツを脱ぎストッキングを被ってふざけるなんて場面には、まだまだ映画で初めて見る素晴らしい画というのがあるものだと思わされた(尤も今振り返ると、この場面には若干の自棄がある)。追い出された店外でストッキングを履こうとして二人でもつれて転ぶ姿もいい。

映画の命はこうしたいわば(お話に対して)細部にある。例えばカフェでアウロラが難民申請中のダリアンの結婚相手の候補としてたまたまそこにいた女性に声を掛ける場面。ここで既に場内には(私には不思議なことに)笑いが起こったものだが、映画の作り手は彼女のぱっと見などではなくその言動が、ダリアンが自分には合わないと判断する理由なのだときちんと述べる。例えば「フィンランド人には見えない」ユハこそが、水着をつけたままサウナに入ってきたダリアンに「サウナを汚すな」「郷に入れば郷に従え」と怒る場面。冒頭の彼の言動の裏にある心情がここで裏打ちされる。

終盤、ダリアンが別の女性と契約結婚することを受け入れられないアウロラが普段から依存している酒を飲みまくって我を忘れる、いや我を失うと表現するのがしっくりくるかな、その描写の強烈さに一瞬驚かされるが、これは冒頭「セラピーで人間関係を書き出してみたら白紙だった」と言っていた彼女の人生に(いや、キンキーやホットドッグ屋の店主など、この時点でも色々いるわけなんだけども)、一つの名前と同時に自身の最大の問題点が浮かび上がってきたということなのだ。意思でもって生きるだけでなく自分をコントロールすること、いわばビジョンの必要性。飛行場での最後のカットは、彼女が「それ」を手にしたことを示している。

冒頭、アウロラが帰宅した家に不動産屋がやって来て「一週間以内に立ち退いてくれ」と告げるが、見ながら本当に、かつて私が集めていた「立ち退き映画」が成り立たなくなったことを思わせられた。今や人生において家がない時間があるのが普通なんだもの。この映画では彼女の父親は施設に、自身は友人宅の後は老人女性のケアの仕事を得てお金持ちの家に、ダリアンの方は難民保護施設のスタッフ(一方で医師として働いている女性)の家に滞在することになる。「運がいい」と言うよりこうであれ、いや選択肢無くしてこうなるということがなければいいと思う展開だ。同時に話は少し変わるけれども、例えば日本語には「身を寄せる」「草鞋を脱ぐ」など一時期よそに住まうことを表す言葉が色々あるけれど、これらは時代によって意味が変わる、あるいはぴんとこなくなって違う言葉に取って代わられるに違いないなどと考えた。