カンフーマスター!/アニエスv.によるジェーンb.


「ジェーン B.とアニエス V. 二人の時間、二人の映画。」にて『カンフーマスター!』(1987)『アニエスv.によるジェーンb.』(1988)を続けて観賞。学生時代ぶりで内容は殆ど覚えていなかった。前者の大好きだったオープニングのあれ、あんなに短かったんだ。するすると塔の上のジェーン・バーキン、すなわちゲーム「カンフーマスター」のお姫様に繋がって話が始まる。ヴァルダこそ私には横移動の映画作家ティーンエイジャーの世界にまで広がる、広げざるを得ないエイズの問題が散りばめられていたことも抜け落ちていた(ヴァルダの夫ジャック・ドゥミは3年後にエイズで亡くなっている)。

ジェーン・バーキンに対して私が抱いているのは、『アニエスv.によるジェーンb.』において語られるマリリン・モンローへの思いや「胸の大きな女の子は…」なんて話にも改めて思った、この世に差別がなかったらそれもそう、いいだろうねというものであり、彼女がある男の子に心惹かれた経験から書いた『カンフーマスター!』の、恋から離れていた40歳の女性が14歳の少年に恋をするという筋書きだってそうなのだ。そしてこの素朴ともいえる眼差しによって逆説的に、男女が逆の類似の話が多々語られてきたのは社会の在り方がそうさせていたにすぎないと分かる。

『アニエスv.によるジェーンb.』でジェーンが「悲しい物語」「完全に私(主人公)の視点」と話していた『カンフーマスター!』を見ている最中に時折マチュー・ドゥミ演じるジュリアンが客体から立ち上がって来るのは、「彼には彼の世界がある」というようなことを言っていたヴァルダの手腕によるものなんだろう。「ホテル」「イースターの卵」などが登場するバーキンの物語にヴァルダが加えたものは女性が追い込まれる状況や大人の男に近付く少年の立場という社会的な目線、そして自分の息子、それらによる見事な矢継ぎ早の後の幕切れの苦さはどうだ。素朴な眼差しと厳しい眼差しの二つがせめぎあった…というより私には後者が前者を大変に活かして仕立てた作品に思われた。


『カンフーマスター!』に映っているのはジェーンそのもの。彼女を取り巻く人々や家が「本物」である他、例えば冒頭ジェーン演じるマリー・ジェーンがシャルロット・ゲンズブール演じる娘ルシ―を見て「なんてきれいなの、恋人はいるのかしら」と首筋にそっと息を吹きかける場面は、シャルロットによる『ジェーンとシャルロット』(2021)で話していた「娘があんまり美しく育ったのでどうしても胸を触りたくなって、申し出て、触った」というエピソードに重なる。これも先に書いた私が彼女に抱いているものに繋がるし、更に、そんなことをしておきながら「きれいなものは好きじゃない」などと言う、その矛盾が『アニエスv.によるジェーンb.』全編に流れている。

二人が映っている映像全てに存在する、母娘の間に流れる、互いに思いながらもどこかぎこちないあの感じはリアルなんだと思う(全く共通点がないにも関わらず、私はなぜかシャルロットには親近感とそこからくる好意を覚えている)。そういえば『ジェーンとシャルロット』でジェーンは「14歳はすぐ過ぎ去ってしまうとヴァルダに言われた」などと話していたから、『カンフーマスター!』にはヴァルダのそうした目線も入っているのかもしれない。手にキスした後に走り去るマチュー・ドゥミの後ろ姿にはあってはならない美しさがあった。

被写体と数多くのスタッフ含めた映画の作り手が同時にフィルムに収められている『アニエスv.によるジェーンb.』を見ながらふとアリス・ギイの作品が脳裏に浮かんだ。ラストシーンの多幸感にはヴァルダの優しさがあふれている。数ある役どころの中、『ジェーンとシャルロット』でジェーンが「昔こういう子と暮らしていた」と言っていた犬と一緒に死んだ夫の遺灰をワインの葡萄畑に撒きにいくというものがあり、そのあんまりの軽さに、「遺灰映画」の主人公って男ばかりだよなという日頃よりの私の考えが逆に強化された。