
オープニング、固定カメラでぼんやり映し出されるのは夫婦の寝室という大変に私的な場所だが、その後に提示されるのはその家の住人である二人、アウグストとパウリナが社会の中でどう生きてきたか。ジャーナリストのアウグストは軍事独裁時代のチリの人々の声を仲間と共に記録し、俳優のパウリナは国で初めての文化芸術大臣に就任した際にいわく「皆のために働く俳優は公共事業のような役目を果たす」。作中の現在において、アルツハイマーを発症したアウグストを芝居の練習や公演に連れて行くパウリナの在り方にまずその言葉を思い起こす。
作中の現在においての、パウリナからアウグストへの「『二人』を忘れないで」との働きかけがあまりに強く、過去の映像の数々を観客であるうちらが見てどうなるんだ、何の助けにもならないじゃないかと疑念が湧いてきたあたりで、この映画はその真の顔を私に見せる(賢い人ならばもっと早く気付いたかもしれないけれど)。「記憶を留めるとはアイデンティティを留めること」を信条に国民の記憶を人々に伝えてきたアウグストが自身の記憶を失いかけた時、パウリナは彼のアイデンティティ保持のために二人の記憶を伝え続けているのだと。
笑いながら泣くパウリナの心持ちと同時に大切なものを失い続けるアウグストの辛さも痛いほど伝わってくるものの、ナンセンスな想像ながら立場が逆でも夫は妻にああしただろうとは思うけれど、男が「公」、女が「私」的な領域を受け持つことが多いこの社会でこのような作品を見るのには複雑な気持ちも伴う。しかし「長生きしたい」「長生きしたくない」「死ぬまで君といたい」とのアウグストの言葉の変遷には感じ入ってしまった。
「チリの死人は蘇るというより死ぬことを許されない、拷問で亡くなった人などは…」との会話が残されていたけれど、これには(同じ日に『ソウルの春』を見る予定だったこともあり)斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』で読んだ、歴史家の韓洪九の「韓国現代史は『死を殺す』という行為の積み重ね」との言葉が脳裏に浮かんだ(この本はハン・ガンが『少年が来る』で行ったのはそれらについて語るためにまずしなければならない「死の回復」なのだとしている)。いま世界のそこここでそのことが語られているんだと考えた。