▼「壁画・壁画たち」(1980/フランス=アメリカ)。ロサンゼルスに入ったヴァルダは「広告」との対比で「壁画」の紹介を始める。すなわち壁画とは広告の逆の存在…「目立たず、急に表れて、微笑んではいない」。いや「広告」とは「壁画」の逆、と言う方がなるほどと思わせられ面白いか。
私は歩いている時に立ち止まることができない。せっかちだからなのか、気になるものがあっても足が勝手に通り過ぎてしまう。ヴァルダの映画において元より道は大事なものだが、ここでは歩行者目線じゃない道からの風景が集められているのがまず面白い。
(とはいえ妙に心に残ったのは、ウェディング業者が自身の家の中で背後の机だかに妻が乗るのを手伝いながら途切れず喋り続けるところで、ヴァルダの全ての作品、あるいは「ヌーヴェルヴァーグ」作品の中の私の好きな要素に、あのいわば心があると思った)
多くの壁画制作者(加えて関係者)が登場し名乗った後で自身について語るが、最初と最後を締めるとある制作者の「描かれているのは全てロサンゼルスに存在しているものだ」が続く80分ずっと心を支配する。「シュールな内容」「顔のない亡霊たち」から森林、草原などここには無いだろと思われるものであっても、あるのかもと思いながら見た。
やはり序盤に登場する他の制作者の「人物を大きく描くのは尊敬の気持ちから」には大好きな「顔たち、ところどころ」が脳裏に浮かぶ。同時に、映画館で映画を見るというのは、ケイン様の著書の「我々はスクリーンにとんでもなく大きく映るから…」じゃないけれど、「大きな人」を見るということなんだと思う。しかも劇場の場合、大抵は見上げて。
▼「壁画・壁画たち」に「彼らにはなぜ拳を描かないのかと言われたけど、私は私が欲しいものを描いた、鳥と自分」と語る黒人女性が出てきたものだが、そこから12年、時が遡っての「ブラックパンサーズ」(1968/フランス=アメリカ)。
「壁画・壁画たち」には「芸術家と女性はアウトサイダー」との言葉があるのでヴァルダもその内部に居ると言えるが、「ブラックパンサーズ」では彼女は外側に在る。前者には車上でカメラを構える撮影隊が建物の鏡に反射して切れ切れに見える面白い映像があったけれども、後者ではカメラの揺れによって個人的な目線が強調されている。ただしどちらも壁というか窓の風景や人物が亡きものとされるのに終わるのだった。