ノマドランド


年越しの花火を手にバンを出ておめでとうと歩き回るファーン(フランシス・マクドーマンド)。受け止める人の姿は映らない、いるか否かも分からない。でも善意を世界に放つんだ、それが今、世界に必要なものなんだ、という映画である。

ヴァルダやケリー・ライカートの旅に比べたら随分温かいなと思いながら見ていたものだけど、終盤浮かんだのは年始に見た「半島」。家族の中でのみ助け合いが行われる世界に抵抗してそうでない助け合いを行うのがこの映画だったが、本作にもそれに通じることが描かれているような気がした。
血縁、あるいは「家族になってもいい」ほど好かれることによって屋根のある暮らしが保証されるなら、その反対がノマドの先達ボブ・ウェルズによる「我々はこき使われた後に野に放たれる、野に放たれたんだから助け合わないと」。そこから降りた、自分が父親だった時にはしなかったろうに赤子を胸に「君もここに住まないか」などと言うデイブ(デビッド・ストラザーン)の整った顔の腑抜けて見えること。

しかしこれは野に放たれてもひとまず殺されるおそれのない人々の口調である。野に放った奴ら、その仕組みを放っておくのかと強く思う。殺されるかもしれない人々、放たれなくとも殺されるおそれのある人々、そうでなくても違う人々は助け合いだけで済ませるわけにいかない。
代用教員をしていた時の教え子に「今でも成績は一番?」と尋ねる時、ファーンには、彼女には仕事を持って自立してほしいという気持ちがあったのだろうか。単にそうなるだろうと漠然と思っているだけのように私には受け取れた。彼女からは世界がこうなってほしいという気持ちは感じられない。

事実を元にした映画における主人公が架空の人物である場合、その造形や作中の変化には作り手のメッセージがこめられていると思う。ファーンが気持ちを新たにする、あるいは気持ちに気付くのは、自分達と異なる存在である若者にシェイクスピアの詩を教える時。「あなたの美しかった夏は決して朽ちることはない」と口に出して伝えることで自身の変化を実感するのだ。彼女が教員をしていたことを踏まえると面白い描写である。
しかしなぜこのご時勢にこんなことを言ってくるのか、思い出というものに思い入れのないせいかぴんとこなかった。今の私にはありのままの世界との交流にはあまり興味が持てない。

ファーンがバンをメンテする場面は多くとも掃除する場面は無いのに、彼女が仕事で掃除、いや他人の汚物を始末する姿が何度も出てくるのが心に残った。作り物であろうとしっかり映る汚物からは、始末をしない人間の害悪が読み取れる(が、このことについてもファーンはさして気にしていないふうである)。
インフラから離れる暮らしなので、上下水道の苦労も多く描かれる。コインランドリーでの時間(と洗濯乾燥機つきの高価なバンとの対比)、バケツでの排泄。ファーンがパンツを畳む場面がよかった。女性の下着って特別視されがちだけど、日常なんだから。あれは色違いでセットで売っているのだろうか。