私、あなた、彼、彼女/ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地

シャンタル・アケルマン映画祭にて観賞。

▼「私、あなた、彼、彼女」(1974年ベルギー・フランス)はアケルマン演じる若い女性のとある道程を描く一篇。

スクリーンの中の部屋に出現した女の「これが始まりだった」とのナレーションに何が始まったのかと見ていると、寝床やら何やらの配置換えの後、6日目に手紙を書く。いわば生まれたてと思っていた人間にアウトプットできるものがあるのが驚きで、昔ならった普遍文法をふと思い出した(人は生まれながらに手紙というものを書くことができる)。アウトプットした後にはインプットというので砂糖を食べて、裸になって、外の誰かに見られて、自分の裸を見直して、ドアを開けて外に出る。

外へ出て捕まえた運転手の男性の「赤い髪と首が素敵でキスしたい」と思っていたのが手でしごくことに。男の横顔のアップで延々と実況(嘆願)が続く妙、この映画のナレーションは全て主人公に指令を出しているようだ(ナレーションの通りじゃない時もある)。衝撃的につまらない男の話の後、翌朝だかに髭をそり髪を整える彼を面白そうに見る彼女。ここまで無言。

それから「私」で通じる、すなわち過去に関係のあった女の部屋へ。ここで初めて声を出す。飢えを癒すように作ってもらったサンドイッチをむさぼり、ワインを飲み、「明日には帰って」と言われた後(明日には帰って?一瞬意味が分からなかった)ベッドで楽しみ、朝カーテンを開け服も着ず帰る。こうして筋を追うのが感想と同意となる映画。私にはこの内容に86分はかなり長く感じられた、一時間ならよかった。


▼「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」(1975年ベルギー・フランス)はデルフィーヌ・セイリグ演じる息子と二人暮らしの主婦のいつもの三日間を描く200分。

家にやって来た男のbonjourと帰り際のお金(待ち受ける手の形がリアル)から何が行われているのか分かるが、それでもこの時点では、内のことを女がやり外のことを男がやると決まっているが女の方には報酬が無いから無作為に抽出された男が無作為に抽出された女に金を渡しているかのように見えた。全編そんなような映画。ジョージア映画祭で見たラナ・ゴゴベリゼ「インタビュアー」(1978年・感想)の主人公にインタビューを受けたらジャンヌはどんな話をするだろうと見ていたのが、「二日目の朝」にコーヒーを立って飲んでいるところでいつまで続くのかと怖くなってきた。

妹が「夫が帰ってきました」と手紙を切り上げるように、彼女たちは家族の帰宅に合わせて物事を進めているものだろうから、「じゃがいも失敗」のくだりのサスペンスは先に帰られてやしないかと相当どきどきした(ジャンヌは案外平気そうだったけど)。しかしそれは、そうそう私も家であんなふうにうろうろしてる、という実感(のための200分)が無ければ得られなかったものだろうかとやはり思う。

ジャンヌは夕食の後に手紙を書くことができる。子どもがある程度成長しており大家族でもないから。家事には自分のためのことと家族(他人)のためのこととの境目が見えないという恐ろしさがあるが、このいわば中途半端さのために余計に、ますます、混然となっている感がある。テーブルの拭き方やコップの取り上げ方などで、単にやる側と決まっているからやっているだけと示されるが、区別がつかなくなっているのが怖い。