ローラ/天使の入江


「ドゥミとヴァルダ、幸せについての5つの物語」特集にて、私はヴァルダが好きなんだけど、このラインナップならまずこれだろうとドゥミの二作を観賞。「個人サイト」華やかなりし頃、もじってサイト名にしていた(笑)「天使の入江」がスクリーンで見られて嬉しかった。



▼「ローラ」(1960)がどんなお話か、女の側から語れば「男」と言う時それはミシェル、男の側から語れば「男」と言う時それはローラン(マルク・ミシェル)のことである。誰の視点が適切かというと、どれでもない。ドゥミの映画ってそうだよね、女に、あるいは女優にというより、まず物語に、映画に恋してるって感じ。そこが好きだ。


作中、アヌーク・エーメ演じる女が「エル・ドラド」で働いている姿は一度も映らない。最初と最後を飾る狂騒のダンスシーンに彼女は居ない。「それだけの、それでおしまいの、そういう女、私はローラ」と、彼女が自分をいわば毎日名付け直している詩を歌うのも「練習」の場面である。冒頭「ローラ」とでかでかと出たところに登場した男がその名を捨てさせる。


三日間、アヌーク・エーメは多忙である。いわく「今日はもうくたくた、こうして年をとっていくのね」。この映画は、女達が全員でもって一つの人生のそれぞれの時を演じているように見えるという意味で、オルミの「木靴の樹」も思い出させる(この映画に限らず、そういうタイプの映画というものがある)。貧困や戦争は進歩を止める、と言ってもいいだろうか。ならばそれらから幾らかでも離れていられる時には、私達が進めなきゃならない、世の中を。


▼「天使の入江」(1963)に沿う「英国人の散歩道」を咥え煙草で歩くジャンヌ・モローを捉えたカメラが猛スピードで遠ざかっていくオープニングに、この二人の映画ってこういうちょっとした遊びが楽しいんだよなあと思う。それこそヴァルダの「カンフー・マスター!」の冒頭なんて最高だもの。


しばらく「普通に」車を走らせているような感じだが、ジャン(クロード・マン)がジャッキー(ジャンヌ・モロー)と出会ってから映画はアクセルを一気に踏み込む。女と同じことを口にする男、男と同じことを口にする女、ジャンヌ・モローのアイラインと睫毛がぐいっと上を向き、歯がにょきっと出る横顔。


ジャッキーが一口齧っただけのアイスキャンディー(確かに不味そうだ!笑)を放り投げたところからスピードはますますアップする。「パリへ帰るつもりが(略)マルセイユにも着かなくなっちゃった」のくだりには、ふと落語の、例えば「らくだ」の終盤を思い出したり(列車と歩きじゃ距離が全然違うけど、その地の人には臨場感があるってこと)


ジャッキーが「たるんだ体よりもディーラーを見ていたい」と海岸を歩きにくそうなヒールで去ると、ジャンはたるんでこそいないが「安定」している子持ちの女の背中に目をやり、先の女の後を追う。これはそういう映画である。対照的にジャッキーが一度だけ彼を追うのが全くもって衝動的に見えるのはどう取ればいいのか、ロマンチストのドゥミのことだから心を預けていいのだろう。


「お金のためなら浪費なんてしない」「ギャンブルの醍醐味は贅沢と貧乏をどちらも味わえるところ」「あなたを犬みたいに連れ回したのは幸運を呼んでくれるから」「あなたには私について何の権利もない」と言い放つジャッキーの「自由」は、それによって男を惹き付けることで保証されている類の「自由」である。彼女のドレスの背中が常に開いているのは、男に背中を見せて追わせるためのように思われる(でもどれも素敵、特に最後に着替える一つ前の大きな花柄のやつ!)


オープニングと「幸運の時」に流れるミシェル・ルグランの曲が、次第にギャグのように感じられてくる(でもって作中唯一、ルーレットが無いところでそれが流れるのは二人が高級ホテルでベットに倒れこむ時である)。全ては大したことがないのかもしれない、でもそこにも何かがある、そういう意味合いの誠実さもある、そんなことをふと思った。


「天使の入江」のジャンヌ・モローが吸っているのも、「ローラ」でミシェルに似た水兵がおみやげに持ってくるのもラッキーストライクだった。ともあれドゥミの映画には常に、根っこに戦争がある。