金の糸


先月ジョージア映画祭で見た同ラナ・ゴゴベリゼ監督「インタビュアー」(1978/感想)からはまず、それでも生きているのが楽しくて仕方ないといった感じを受けて心を掴まれたものだけど、この新作ではそのことにつきはっきりと言葉にされている。生を楽しむのがジョージア人の才能、それは私達が何とか生き延びて来たからなのだと。更に歳を経たからこそ確信を持って言えるのだろうと考えた。

「私達は常に後進性と周縁性を意識している」と原稿を認めながら「失われた時を求めて」とは何と素晴らしい表現だろう、私達の気持ちそのものだとカメラに向かって…というのは少し違う、この映画における主人公エレネ(「インタビュアー」にも出演していたナナ・ジョルジャゼ)の語りは彼女が誰かに向けて投げかけているところが重要なんだけども…話すのに続けて室内の大きな鏡に映して彼女の日常を見せるアヴァンタイトルのセンスの良さよ。母と娘のダンスや部屋からの通りの撮り方、すなわち物の見方が「インタビュアー」と同じなのが心に残った(編集、すなわちリズムが全く同じ調子の箇所もあった)。

79歳の誕生日を迎えたエレナは人間としてほぼ出来上がっているので、作中大層な変化があるわけではない。それじゃあ何が起こっているか、描かれているかといえば、それこそ彼女が言う「風が吹けばささやく」。体を悪くし生まれた家から出られなくなっても風に吹かれることは出来る。それに必要なのが、エンドクレジットに「電話のロマンス」という物語に基づくとあったことから作品の土台となっていると分かる、他者とのコミュニケーションである。かつての恋人アルチル(ズラ・キプシゼ)はエレナに「私達の生は絡み合っていた」と聞けば受話器を放って踊り始めるし、ある出来事を経験した彼女は彼に原則と思いやりとどちらが大切か問うてみる。

風を吹かせ合う相手が「かつての恋人」とは今では無邪気とも呑気とも取れるヘテロロマンティックに乗っかっている。それは冒頭エレナが「(誕生日だから)娘の婿が私の大好きな野の花を持って来てくれた」と話すところに既に表れている(花をもらうなら男性から、という好みを感じる)。向かいの窓に映画のように見るDJ業のダメ男と別れられない女性の恋愛模様も、「美青年」だったアルチルの過去の行状が作家として生きてきたエレナと国益のために生きてきたミランダ(グランダ・ガブニア)が本心をぶちまけ合う「きっかけ」になるのもそうだ。ただし、それらは人生の糧であって主題じゃないこともまた伝わってくる。

私自身が身内の晩年を見た経験や知人の話からすると、家から出ない…全く風に吹かれないことは幻覚や幻聴の原因となり当人を混乱、困惑させる。アルツハイマーというのはそれとは異なる領域の問題なのかもしれないけれど、窓を閉めたがるミランダの近過去と現在はそれに近い状況だったと言えるのではと想像した。序盤にエレナがアルチルに話す「死は自分がいる限り存在しない」とは私の昔の考えに近いが、終盤彼女はミランダの件でそうではないと気付き、そのことをアルチルに告げる。それは通りを駆けてゆく少女は通りを絵にどう描けばよいかまだ分からないということにも似ている。