アンネ・フランクと旅する日記


アンネ・フランクの家」で特別展示中の「アンネの日記」を見るための大行列の誰一人として脇でテント生活をしている人のことを気にもかけないという、1分で言いたいことが伝わってくるオープニング。まずは1930年代にユダヤ系ドイツ人の多くがオランダへ移住したのは難民を広く受け入れていた態度を信頼してのことだったと思い出したい。それなのに、そして今、という話である。受け継がなきゃならないのは本や名前じゃないだろう、というので日記から「キティー」(声・ルビー・ストークス)が出現する。勿論この映画を見たりその感想を書いたりする者もその向かうところだ。

アンネ・フランクはどこ?」というタイトルのこの映画における「アンネの日記はどこ?」という皮肉は、いつの時代にも存在する、お話の流通・消費に伴う危険性を表している。「アンネの日記」がアメリカで映画化されたことでベストセラーとなったように、映画にはよくも悪くも強い力がある。だからこそ願いをこめて何度も映画化されてきたとも言えるわけで、これまでの映画化作品を改めて見直したくなった。本作でも挿入されている、アンネの親友ハンネリが鉄条網越しに彼女と会ったという実話を用いたNetflixで配信中の「私の親友、アンネ・フランク」(2021・ベン・ソムボハールト監督)も、ハンネリが存命中に本国オランダで初めて製作されたという大きな意義と共に、生きていれば変わりゆく感情や関係を紡ぐ相手とある日突然引き離されてしまう惨さを描いて大変よかった。

映画化に際して作品が拾える「アンネの日記」の要素は点といっていいほど少ないけれど、この映画は実にうまいところを軽やかに取り上げている(作中のべ半分程が、日記を通じて現代に繋がる当時のアンネ(声・エミリー・キャリー)のパート)。テーマに合わせてアンネの父オットーの「一人でも多くの命を助けなければ」という精神が強調されているのに始まり、日記が一番の荷造りから慌てて発ったように見える朝の食卓、「戦争の終わりの始まり」というニュース内の言葉まで(あの愉快なペクチンのCMにも何か参照元があるのかな?)。一方で自分を救うための憧れのスター達の戦闘や家族を収容所へ運んでいく列車などアンネの想像が表現されるアニメーションの豊潤も素晴らしい。

「オットーにより…」という注釈からキティーがアンネの死を知るという流れになるほどと思いつつ胸を痛めていたら、オットーが知人に預け当初公表されなかった5ページに書かれていたアンネの「おかあさんは自分を一番に愛する人と結婚したわけではない、だから…」という考えを彼女の分身であるキティーが口にするという展開に唸ってしまった(冒頭男の子を従えたアンネが「私だけを一番に好きでなきゃ」と言うのはここにも掛かっている)。キティーユダヤ人であることを望み、選ぶというのもアンネが日記に綴った気持ちそのものである。二人の会話の場面には、アンネが想像上の友達とのやりとりという形式によって自身の考えをまとめていたことも表されており面白い。


要するに、加害者か被害者か、善か悪か、正義か不正義か、といった色分けではけっして解決しない問題がここには横たわっているのです。
(略)
アンネの日記』は、長らくユダヤ人迫害についての教科書として、人種差別反対のためのバイブルとして、多くの人に読みつがれてきました。したがって、人びとに悲劇の実態を伝えるための役割は十二分に果たしてきたわけですが、これからは、そういう一面的なとらえかただけでは、やはり限界があるように思います。(略)これ(アンネの実像をより浮き彫りにしている『アンネの日記』完全版)を人間相互の〝異質さ〟を認めあい、尊重するための手がかりとして読んでいただければ、と思うのです。

 『アンネの日記』完全版への訳者あとがき(深町眞理子・1994年/増補新訂版より引用)