女は二度決断する



刑務所の房から一張羅の男、仲間の歓声と拍手、ラジカセから「My Girl」というオープニングに意表を突かれる。「眼鏡」を挟み、手を繋いだ母と息子が(他人など「おかまいなし」の)車に轢かれそうになる映画の始まりは、まるで今や刑務所よりも街の方が危険なのだと言っているようだ。息子が(どこで覚えてきたのか?)口にする「EMPATHY」は無い。


カティヤ(ダイアン・クルーガー)の元に警部が現れての「彼は熱心な信者でしたか」「政治に無関心な人でした」からのやりとりに、政治から離れている(「いられる」ではない)人間はいないということが分かる。後日警察にて、コーヒーを注いでもらう彼女と彼の間の大きな距離。「家の頭金はどうしたのですか」「義理の父に都合してもらいました、トルコの地主だから」「何を栽培しているのですか、綿花とか?」「住宅よ」。「ドイツ人」はトルコのことをよく知らず、トルコ人を殺すのはトルコ人だと考えている。そのことに、いかにもヒトラー好みのドイツ人美女、ダイアン・クルーガー(演じる女性)が辛酸を舐めさせられる。


有罪になるか否かの不安や緊張と仲間内での親近感しか顔に出さないネオナチの面々、彼らを表情豊かに「かばう」弁護人、この映画の裁判は、確かに「裁判」が行われているのと同時に「世の人々がものを言う姿」を見せる場に思われた(だからどことなく現実離れしている)。「敵」が本題から目をそらすためにカティヤの麻薬使用を利用するのには、「シチズンフォー」でスノーデンが「僕が暴露する内容は僕の人格と切り離して考えてほしい」と強く言っていたのを思い出した。近年このことを思い出させる映画が多い。


タバコの火を借りる体での「ありがとう」への「いつかコーヒーを」に作中初めて「未来」が登場してはっとしていたら、同じようにはっとしたらしき(ここの表情の微妙さ、素晴らしかった)カティヤは「犯人と分かっていても通報した?」と質問し「正義」(この章のタイトル)の存在を探る。そこにはあった。しかし裁判(社会)には無かった。そうしたら行先は「海」(次の章のタイトル)しかない。ギリシャの海辺の木々の禍々しさは、冒頭、タバコをポイ捨てした彼女が友人を乗せて発進する、両側に車がびっしり停まった道の脇の木々からずいぶん遠いところにある。


生理用品がカジュアルに出てくる映画にはそれだけで良さがあるが(日本社会ではまだ「カジュアル」じゃないから)、本作のそれはとりわけ「自然」でいい。片手にケーキ、片手にタンポンがテーブルに運ばれカティヤから友人に渡るのと、売店で裸のまま男の店員の手から彼女の手へ、そのままポケットへと移動するのと。義理の両親に家族は渡さないと言い切った後の鼻血を始め、浴槽を漂い上る手首からの血、サムライを仕上げる時に滲む血まで赤い血が何度も出てくるのは、まだ生きているということだろうか。私には「明日はきついぞ」の日に彼女が聞く証言との対比にも思われた。