アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル



「くそ」面白かった。最後に実際のハーディングの映像を見ると、マーゴット・ロビーはやはりトーニャではないが、このように作り込んだ映画においては、そのことは作品の良さを減じさせはしない。あの作り込みは、事実がどうこうというよりも、権威による排他やマスコミから私達までを含む観客の非情、自分を傷つける者から逃げることの重要性を描くことに重きを置いていることの表れに思われた。


オープニング、皿のたまったキッチンで話し始めるトーニャ・ハーディングマーゴット・ロビー)。夫と言うより娘代わりの鳥を肩に止まらせた母ラヴォナ(アリソン・ジャネイ)、現在の妻の名を冠した美容院に落ち着いた元夫ジェフ(セバスチャン・スタン)、テレビから出てくるでぶのショーン、花柄に花柄を重ねるコーチのダイアン(ジュリアンヌ・ニコルソン)、時の止まった部屋に座る記者(ボビー・カナヴェイル)。続く、「それならタバコは隠れて吸う」母が、生徒の「質」を保ちたいコーチの元に、すなわち上の世界に娘をねじこむ駆け引きと言うにはストレートなやりとりと、幼い当人の無心に見える笑顔に引き込まれた。


夫とようやく縁を切ったトーニャが髪をひっつめトレーニングウェアで「外」に出ていくところに「The Chain」が流れ始め、リンクで回りに回っての笑顔に、なんて「一人で生きる」話だと思って涙が出た(独り身であるか否かとか、そういうことでなく)。後にもう一つの関係が修復不可能なほど壊れる予感だったろうか、いや妙にすがすがしくもあった、それが正しいとラストに分かる。映画が最後にはっきりと言うのは、トリプルアクセルを跳ぶのと殴られ倒されるのとで観客の反応が同じであっても…世界がどうであろうと、血を吐いても立ち上がって踏み出す、それがこの私なのだということだ。


この映画が描くのはトーニャが体制に挑んだ年月である。「5000ドルくれるわけでもないなら黙ってろ」と審査員に捨て台詞を吐く彼女が、パンツ一丁で、衣装を「上品に」しようと飾りをつけるシーンが悲しい。ごてごてしたそれを鏡の前で夫にあてがって見せるのは、二人が同じ(スケート協会の望むようでない、「労働者」の)世界に生きていることの表れだと思った。彼は彼女が「スーパーパワー」を持っていると言うが、それは明らかに存在するのに効力を持たず、彼女は上り詰めたばかりに永遠に締め出されてしまう。「スケートだけじゃだめですか」、なぜだめなのと私も思ってしまう。


リレハンメルオリンピックを会場でなくバーで見る母が、「靴ひも」に周囲の人々の反応を、すなわち娘の敵か味方かを窺う(アリソン・ジャネイの目の動きよ)。「他人」になったゆえの行動だろうか。観賞中、母娘の最後のシーンに笑っている人がいたのには驚いたけれど、自分を傷つける親なら離れるがいい。「(親だから)私の暴力は別」なんてことはない。暴力と言えば、トーニャとジェフが作中初めてキスする時にどちらも手を仕舞ったままなのがやけに目立っていた。それこそ互いの「手」を隠しているかのように。更に思い返すと、トーニャが暴力を振るうのは相手からやられた時だけである(「銃」のシーンのみ異なるが、あれは他より細かく切り取られたものである)ことも妙に心に残っている。しかし誰かにとって「暴力が日常」である時、その事情は考慮されないものなのだ。