静かなる情熱 エミリ・ディキンスン



とても面白かった。映画が進むにしたがって、自分の思っていたことが裏切られ始めるというか、よく分からなくなってくる。そういう形で知る作り手の真面目さというものもある。


上映館である岩波ホールで以前遭遇した予告編の、皆の中で座ったまま頑なに動かないエミリ(シンシア・ニクソン)の姿が忘れられずにいたものだけど、見てみたら全篇通じて彼女が「動かない」ことで主張する物語だった。様子のよい青年の誘いを「父の土地から出ないことにしている」と断るエミリは、家から出ることも殆どない。「既婚者の牧師」にリボンをかけた詩を手渡し、認められたいという欲望を語るのが「庭」(すなわち「外」の手前)であるのは示唆的である。


二学期の終わり、女生徒の中でエミリが一人、「感じることが出来ないものは信じられない」と立ったままのオープニングに惹き込まれた。予告で見たのは、家にやって来た牧師の言葉に彼女だけがひざまずかないという場面であった。父エドワード(キース・キャラダイン)に対する「謝罪するとしたら神にだけ、牧師に対してじゃない、私の魂は私だけのもの」なんて、今だって言える人がどれだけいるだろう?


エミリの女友達ヴライリング・バッファム(キャサリン・ベイリー)が、近年見た映画の中では一番ってくらい友達になりたいタイプだった(彼女は「自立した女性教師」)。地元を離れる際の「手紙をちょうだいね」に「文通を続けるのは苦手」とは、まさに私が言いたいし言ってもほしい類の言葉だ。尤も私がエミリよりもバッファムと仲良くなりたく思うのは、私にも彼女と同様「内心で抵抗する」という弱さ、あるいは狡さがあるからかもしれない。中盤、久々に帰って来た彼女が庭のアーチの中を、エミリはその外を歩く場面は、二人が同じ資質を持っていながら表し方、すなわち生き方が異なることを示している。


冒頭からエミリが…いや映画が私に向かって語りかけてくるエミリの詩と、作中の人々の間で飛び交う言葉の数々とは種類が違う。どちらも才気走っているとはいえ、彼女の詩は「全てが眠っているよう」な真夜中に書かれたのだから。唯一「私は誰でもない、あなたは誰」とあの詩を語りかけるのが、生まれたばかりの人間、つまり言葉を解さない相手だというのが面白い。


もう一つ面白いのは、 エミリが兄オースティン(ダンカン・ダフ)の不貞を「重なりあってたくせに」と非難すると「お前は詩も言うことも下品だ」と返されるところ(後に自身でも「言葉で攻撃してしまう」と反省する)。「不貞」という行為そのものよりも、それを「言葉にする」ことの方が畏れられる。世界は言葉にせず知らんぷりしている。それなら出来る限り、やっぱり言葉にしなければ、何でも、と決意した。