スペアキー


マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルのオンライン上映にて観賞。2021年フランス、ジャンヌ・アスラン、ポール・サンティラン監督作品。

演技であっても心配になるほど子どもが折檻されているオープニング。フィフィ(原題『Fifi』、セレスト・ブリュンケル)の母と継父、姉二人と兄、姉の子ども達との団地での暮らしは混沌としか言いようがない。外へ出るとなればゴミ捨てにタバコの買い物、お金が足りなければどうにかしろだの手持ちはないかだのと言われ、15歳の時間がその年ならせずともいいはずのことになあなあに浸食されている。彼女が「やればやっただけお金が入る」封筒の納入の仕事に惹かれる(ひいては母親が言う「仕事をしたがってる」)のはそんなわけじゃないだろうか。映画の終わりに仕上げとしてそのお金を手にした彼女は姪や甥を連れ初めての海を見に行く。これまでは読まなかった本を読み、上の学校を目指すかもしれない。

15歳がこのような生活をしていれば映画はそれをある方向に、多くは保護者などの大人や社会の働きによって引っ張り上げる形になる場合が多いが、本作は少し毛色が違う。それはもう、どうしようもないんだ、でも周囲は優しさに満ちているんだということを描いた上で、「父親は歯医者、夏は家族でバカンス」という「普通」の家の抜け殻で出会った年上のステファン(カンタン・ドルメール)との時間が彼女を変え、環境を変える(兆候を見せる)。映画祭での紹介文に「ユーモア」との言葉があったのでこの映画のユーモアとは何だろうと思いながら見ていたんだけど、私にはそれはステファン、あるいは彼を含む「普通」の人々の側に備えられているように思われた。フィフィが笑う(ステファンが言うように彼女というかセレスト・ブリュンケルの笑い声は素晴らしい)15歳だかの時に書いた詩しかり、彼の悩みはフィフィのそれとはステージが違う。それが残酷にも間抜けにも見えないのはまぶされているユーモアゆえなのだ。