きっと地上には満天の星


映画には、人には事情があるのだという想像力を鍛えてくれる役割があると私は思っているんだけど、この映画、原案である「モグラびと」の記憶からして(あれは現在の状況でないとはいえ)舞台が早々に「地上」となるのに驚いていたら、その描写が鮮烈だった。地上の人々にとっては地下も地下である地下鉄のホームにまず上るが、5歳のリトルにとっては全てが過激で耐え難い。ましてや街中をやだ。例え彼女のような身上でなくとも、誰かにとっては今この時、それに類することが起こっているかもしれない。

特に近年、女が主人公の映画ではトイレの場面が実に多い。その役割は諸々のトラブルに対処するための私的でありながら公共の場、というものであり、作り手に増えた女性達がそのことを訴えるようになったのだ。本作のそれも印象的で、地上に出て程なく母親のニッキー(監督のセリーヌ・ヘルド演)がリトルを身綺麗にするやり方、怯える彼女のために個室をひととき家のようにせんとするその歌、地下では見たことのない石鹸などの描写が素晴らしかった。

モグラびと」に出てきた人々は結構な割合で地上は酷いところだから出たくないと話していた(地下で色々見聞きした著者はそこには素晴らしいものがあると書いていた)記憶があるけれど、これは今更ながらそれは「どういうこと」なのかという映画化に思われた。冒頭やけに抒情的なのに違和感を覚えていたら、あれは地下にのみある空気なのだ。つまり、この世は非情なのだ。

「ここに子どもはいない…5歳の大人はいるけれど」という引用の後に登場するリトルは確かに一人でも支障なく時間を過ごせるが、それはひと時に限られており、周囲の大人も本を読んだり引き算の話をしたりといった以上のことは出来ない。「明日はいいけど先のことを考えな」なんである。しかしこの、冒頭磁石のように吸い寄せ合う母子はそこから身動きできない。

終盤の地下鉄での一幕は圧巻で、一駅戻ったニッキーがホームを渡る(階段を上って下りる)場面など忘れ難い。それにしても、車内でパニックになるニッキーを撮影する輩もいるが、地上、いやニューヨークにだって善人、いや普通の人は多い。しかし「母子で一緒にいる」ために最も必要なお金を得ようとすると悪辣な人間と接するしかない、弱い人間ほど搾取されるという現実が足枷なのだと、この映画を見るとつくづく思わせられる。