いつか見た青い空/セカンドインパクト


特集上映「サム・フリークス Vol.26」にてアメリカ映画二本立てを観賞。

▼用を足すのに他人の手を借りなければならないからと避難所で水分を控える高齢者の話を聞くけれど、『いつか見た青い空』(1965年アメリカ、ガイ・グリーン監督)で大好きなパイナップルジュースを遠慮する盲目のセリーナ(エリザベス・ハートマン)にそれと察したゴードン(シドニー・ポワチエ)がお手洗いの行き方を教える場面には、飲みたい物が飲めないとはなんて非人間的だと思わされた。そこから動かないよう祖父に言われた木の元のセリーナに、ゴードンはまず美味しい物を食べさせトイレへの道を教える。食と排泄は尊厳の基本だ。

ゴードンのセリーナへの第一声が「できることはある?」なのに当時も今も手助けの入口が同じだと分かる。しかし教育を受ける機会も奪われ売春を強要されている彼女に彼ができるのは木の元から連れ出し送り届けるまで。彼も働いて金銭を得ねばならず、何より盲人と黒人に世間は冷酷だ。昔も今も「二人」ではどうにもならない(からこそ物語のラストはその関係の外へ出て行くべきなのだ)。セリーナが歩道で一人さまよっていても転びでもしない限り誰も手を差し伸べない場面の恐ろしさ。それがアパートでの大げんかとなると「他人ごとじゃない、でかい声が迷惑だ」と住民皆が集まってくるのは、恐らく敢えて穏便に、笑えるように描かれている(と思われる場面がこの映画には幾らもある)けれど笑えない。

母親ローズ・アン(シェリー・ウィンタース)からゴードンが黒人だと聞かされたセリーナのにやり顔!外の世界を知った彼女が、怒りや嫌悪を声に出すことに始まり支配から少しでも抜け出しているしるしだ。中盤パールという名の黒人の少女と引き離されたと話す時、彼女は彼が黒人だと想像もしないのだろうかと思ったけれど、見えないセリーナにとってゴードンはまず「高いところからラジオのアナウンサーのように話しかけてくる優しい人」であり肌の色など関係ないのだった。この時代の「盲人と黒人の触れ合い」の話ならそういう要素があるに決まっているのに、そうと分かる場面は陳腐じゃなく新鮮だった。最後の「バスが着く前に…」でふと、悪い意味でなくその時にしか作れない映画というのがあると思ってなぜだか涙が出た。

ジェイムズ・ボールドウィンの原稿を元にしたドキュメンタリー『私はあなたのニグロではない』(2016)では、ポワチエ主演の『招かれざる客』(1967)が「我々の最も嫌った映画」と語られていた。当時の映画におけるポワチエは常に知的で優しく努力して掴んだ地位も備えているが、キャラクターに通じるところがあっても映画は異なる。『招かれざる客』や『いつか見た青い空』のガイ・グリーン監督がやはりベストセラー小説を元に撮ったという『ダイアモンド・ヘッド』(1962)などは異人種間の結婚を扱いながら描かれるのは「受け入れる」側の苦悩のみであり、前者でポワチエ演じる男の知性や優しさは生きた人間のそれとは言えない(というのは今現在のマイノリティが出る映画にも通じるだろう)。他の映画だって大方、彼と同じ属性の者にはそう見えたかもしれない。そうしたキャラクターでなければ活躍できなかったポワチエがそのキャラクターで「生きる」ことができたのはこの映画の他に何があったろうと考えた。


▼先日劇場に掛けられたドキュメンタリー『ヴァル・キルマー 映画に人生を捧げた男』(2021年アメリカ)に大好きな『トップ・シークレット』(1984アメリカ)の映像目当てに出向き、帰宅後久々に同映画のオーディオコメンタリーを流していたら、ZAZの面々が「マーティン・バークが脚本に加わってくれた、ぼくらだけじゃダメだった」と話していた(声色からだけじゃニュアンスが分からないけども)。そのバークが脚本を書いているのが『セカンドインパクト』(1997年アメリカ、ジョー・ダンテ監督)。ちなみに三人は「一番出演してほしい役者」としてチャールトン・ヘストンの名を挙げオファーしては丁寧に断られているとも言っていたけれど、やはりコメディはキャストが重要で(と書くとやはり『フライング・コップ』(1982年アメリカ)の出オチが思い浮かぶわけだけど)この映画もオープニングクレジットだけで本編に備えて体が温まる。

トワイライトゾーン 超次元の体験』(1983年アメリカ)のジョー・ダンテ編(リチャード・マシスン脚本)では超能力を持つ少年が気に入らない姉をテレビアニメの中に閉じ込めてしまう。これが案外怖いんだけど、ダンテの映画にはそうはいってもこれは(観客にとって)画面の中だからという目線が常にある。中は中、外すなわち現実は現実。『マチネー 土曜の午後はキッスで始まる』(1993年アメリカ)のジョン・グッドマン演じる映画監督だってそういう姿勢だ。『セカンドインパクト』でえらい事態にも関わらずソープオペラから目を離さないアイダホ州知事ファーリー(ボー・ブリッジス)の姿には、だから悲劇の予感がある。殺人が中継されたのに平然と仕事を進める男性アナウンサーとそれにぶち切れる女性アナウンサーを経て、映画の終わりにはテレビ局内の画面という画面に殺し合いが映っている。現実に対処しないと画面の中の恐怖と現実がいっしょくたになるという警告のように私には思われた。