ウォーターメロンマン


「“ほぼ”アメリカ映画傑作選」にて観賞、メルヴィン・ヴァン・ピーブルズ監督の1970年作。

差別主義者の…と言ってもここまで露骨に表出しないだけで多くの人間の認識がこのようなものじゃないかと思わせる…中流階級の白人男性が目覚めたら「黒人」に。外へ出て散々な目に遭うのかと思いきや(それは私が時に、お前も「若い女」になってかつて私がそうだったように酷い目に遭ってみろよと思っているからだろう)、この映画、まずは主人公ジェフ(ゴッドフリー・ケンブリッジ)が「白人」に戻るために家の中であがき散らかすのにかなりの時間を掛けている。不思議に思いながら見ていたんだけど、後に彼が接する仲間達は生来の境遇に慣れざるを、受け入れざるを得ず、好き好んで得たわけではない強さを備えているがジェフはそうじゃない、その差、すなわち彼のじたばたにこそ不平等が表れているのだろう。

子どもらは終盤など妻アルシア(エステル・パーソンズ)の妹のところへやられてしまい存在感がないが、「ある程度まではリベラル」なアルシアとの場面が大方を占めるのも意外だった。なぜあんな夫を愛しているのか…あんな夫との「水曜日」を楽しみにしているのか今を生きる私には分からないんだけども、冒頭「肌を白くする薬」をずらり並べた奥の鏡に映る表情の滋味が素晴らしく、彼女の場合は「毎日つまらな」かったのがこの一件で生き返ったようにも見えた。女性といえばジェフが会社でセクハラしまくっていたノルウェー人の若い女性が彼が黒人となるや興味を示してくる、すなわち性欲を露わにされる方こそ差別されているのだという示唆は大変よくあるものだが、その顛末(顛末の顛末)は今なら「ない」だろう。

アリス・ギイから石坂啓、あるいは『軽い男じゃないのよ』などの作品は男女の立場が逆になった世界を描いているが、本作で逆転するのは主人公の立場であり、それをゴッドフリー・ケンブリッジが演じていることが肝。「白塗り」しての序盤も本来の姿に戻ってのその後も言動の全てがいわゆる自虐ジョークとして生命力を発揮しているから。『軽い男じゃないのよ』のような作品も「女」が「男装」して演じれば別の面白さが出るんじゃないかとふと考えた。