奇蹟がくれた数式



オープニングは、インドの事務員ラマヌジャン(デブ・パテル)がまだ見ぬケンブリッジのハーディ教授(ジェレミー・アイアンズ)に宛てて送った手紙。最後に「S・ラマヌジャン」とのサイン、私達がその「S」の実を知るのは映画の終盤である。作中のラマヌジャンとその妻、母の孤独があまりにあまりで、どうしたって何もかもが遅すぎたと思われて、教授役がアイアンズじゃなかったら、精一杯やったのは分かるけど!と胸ぐらをつかんで揺さぶりたいくらいだった(笑)


映画は過去を振り返るハーディの「インド人と英国人が分かり合うのは難しかった」というナレーションに始まる。彼はこの語りの最後に「私が彼を発見したわけではない、彼は多くの偉人のように自身で自身を創造したのだ」と言うが、これは何だろう?確かにハーディが居なければラマヌジャンの名は歴史や記録に残らなかったかもしれないが、一体歴史とは、記録とは何だろうと思う。


ラマヌジャンが妻に、ハーディが召使に、自身が何に取り組んでいるかを説明する場面があるので、私もそのおよその輪郭を掴むことは出来る。前者の方が自分の中に取り込むのが難しいのは、ラマヌジャンが「天才」だからだろう。そのせいもあってか、映画にも、彼が「ナマギリ女神が舌に置いていってくれる」と表現するその「感じ」があまりうまく描かれてはいない。またラマヌジャンのアプローチとハーディのアプローチは次元が違うのでありどちらがどうというわけではない、ということも伝わってこない。


この映画で面白いのは、始めのうちハーディが、自身にはその気がなくともラマヌジャンを「人間扱いしていない」ところである。初対面時に「(名前の)発音は合っているかな」と確かめることはしても、机を挟んで顔を合わせようとその傷にも気付かず、「仲間」のリトルウッドトビー・ジョーンズ)やバートランド・ラッセル(ジェレミー・ノーサム )の批判は受け入れるのに、ラマヌジャンに「あなたは誰なんですか」と問い詰められると「私を批判するなんて!」と激昂する。


ラマヌジャンが運び込まれたインド人医師の元に駆け付けたハーディが「何か出来ることはないか」と言う時、それは誰かへの直接的な働き掛けを意味しているが、医師は「奇蹟が必要だから祈ってください」と返す。これは「個」として生きるハーディに対し(彼はこの時にはまだ祈りはしない)、ラマヌジャンらは何かを通じて世界と関わっていることをも示している。それはケンブリッジの自室でラマヌジャンが、元々の机の上ではなく窓辺で書き物をしている姿をどこか思わせる。


「発想の源」を(ハーディにとってみればようやく!)明かしたラマヌジャンの「分かりませんか?それなら今までの関係でいい」との言葉に、無神論者のハーディが「神の存在は証明できないから信じないが、君の言うことは信じる」と返すのは、これまでラマヌジャンばかりがハーディの世界に自身を嵌め込んできたのが、ハーディの側もそれをするようになったのだと取れる。このやりとりを経てラマヌジャンはハーディを「友」と呼ぶように、ハーディはラマヌジャンと「対等に」付き合ったのだと口にするようになる。


ハーディの言動にはがゆくなるも、例えば私が「彼は菜食主義者なのでは」と想像することが出来るのは、おそらく「今(この時代)」だからであり、そうした「世界が狭くなる」流れはよきことだと思う。ラマヌジャンマドラスでの雇用主への「ガラス玉にしか見えなくてもそのうちダイヤモンドになります」なんて懇願や、マックマーン(ケヴィン・マクナリー)が分割数の一件で初めて彼を受け入れる行為は、全然よきことじゃない。ガラス玉だって仕事をして生きていける世の中じゃなきゃと思う。


男性にしか学位を認めていなかったトリニティ・カレッジのパートで女性の姿が見られるのは、バートランド・ラッセルが主催する民主管理組合の集会のシーンのみ。平和と女性のための運動によりケンブリッジを追われたという彼のこの面についてふと、深く知りたくなった。