僕らの世界が交わるまで


今終わる!と思ったところでやはり終わったラストカットは母エヴリン(ジュリアン・ムーア)が息子ジギー(フィン・ウルフハード)の何年前だろうか、初めてのVlogを初めて見終わって後にしたオフィス。この映画の面白いのはまず、家族である二人が(邦題を借りれば)交わるのが家の外だというところである。薄暗いキッチンを「家」だとすると、あの後には二人はあそこに落ち着くのだろうか。
二人が家の中に自身を置かないのは家長じゃないからではなく、性分ゆえに私には見えた。冒頭エヴリンが車内で鳴らすショパンがあまりに煩く、そういう演出なのか劇場の音響のせいなのか分からず戸惑ったけれど、彼女があそこで何かを一気に摂取しているのは確かだが、PCをトイレで開くのは部屋がないからではなく家族から隠れるためである。そういう意味でもこれは「政治的」じゃないという政治性のある映画に思われた。それゆえ最後に流れるのがウディ・ガスリーの曲(Union Maid)であることをどう受け取っていいか分からなかった。

次に面白いのは、近年の映画によくある「政治的じゃない男子が極めて政治的な女子を好きになる話」のバリエーションを広げているところ。例えば先日劇場公開された『弟は僕のヒーロー』(2019年イタリア)では主人公はその恋心ゆえ村の外へ進学し彼女と親しくなるが、こちらのジギーは憧れのライラ(アリーシャ・ボー)に「二万人のフォロワー」ばかりアピールしたあげく彼女の植民地主義批判の詩に曲をつけ、投げ銭がもらえた、政治もお金になるなどと言ってすっかりあきれられる。「君のようになりたい」と言いつつその詩(筆跡)で自慰をするというのが、かりに誰かになりたいと思ったら…思ったことはないけれど…その相手に性欲は抱かないであろう私には、そういうこともあるという程度の描写なのか、ちょっとした冗談なのか皮肉なのか捉えかねた。
エヴリンの方も自身が運営するシェルターに迎えた母子の息子カイル(ビリー・ブリック)にジギーにはないものを求めて失敗する。二人が対峙する最後の場面に、シェルターの利用者とスタッフには権力差がある、少なくとも利用者側はそれを感じていることが示されているのが面白かった。