エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス


「ジョイ」(「ママをママに持った喜びも知っている」/ステファニー・スー演)は、エヴリン(ミシェル・ヨー)が彼女を娘?と初めて認識するシーンで警備員に「お前はここには居られない」と言われ「フィジカルには存在するのに?」と返す。誰かの存在を他者がジャッジするという、今のこの世に満ちている悪意が生んだのがこの映画の「悪」である。救済するのは「あなたの母親!」ことエヴリンの「一緒にいたい」。母親がすべきことなんだろうかと一瞬考えたけれど、私が判断するのもおかしな話か。

マルチバースにつき、とりわけ映画においては何かを語るためと理解していても「別の自分」は「自分」じゃないだろうと私は思ってしまうし興味も持てないんだけど、それはその概念を必要としない程度に恵まれているからだろう。ここではそれは優しくない父親の元に育ち色々なことを諦めてきた、「全ての君の中で一番ひどい人生を送っているからこそ何でもできる」主人公を語るための装置である。

本作の一番の見どころはエヴリンの夫ウェイモンドを演じるキー・ホイ・クァンの爆発している魅力で、なぜ今まで見られなかったんだと切に思う。序盤に国税庁のデスクの前でヨーと彼、ジェームズ・ホンと三人揃った画の素晴らしいこと、これもまたスクリーンで見る価値がある(「大きく」見た方がいいから)…と感に入っていたら、ラストシーンでは新世代のステファニー・スー含めた四人が一応、一旦揃うのだった。

ただの「ウェイモンド」の、店の客や監査官といった他者とパートナーの間に入って緩衝役になる、長年連れ添ったであろう夫婦のキスに憧れの目を向けるといったふるまいは、フィクションでは(前者は現実では否応なしに)女性の役割である。当初は「ジャッキー映画」(男女逆)が想定されていたそうなのでどの段階でそれらが書かれたのか気になるところだけど、結果的には新しく魅力的な男性が誕生している。逆に彼がヴォネガットの引用だというBe kind.というキーワードを口にする際、そういやエヴリンは優しく見えないなと初めて気付いた。ここには私の、女性の登場人物は優しい、少なくともその資質を備えているはずだという偏見がある(そんな偏見はくそだと思っているのに)。

見ながらなぜ肉弾戦なのかとずっと思っていたんだけど(カンフー映画だからと言われそうだけど、マルチバースなのに大変不自由な戦い方に感じられて)、あの肉体性は何でもありなら何もなしになるということへの抵抗、返答なんだろう。最後にエヴリンとジョイ・トゥパキのほぼど突き合いになるのは前者が後者を虚無から引っ張り出し始めたことの証と言える。更にエヴリンは「あなた(夫のウェイモンド)の戦い方を真似」してジョイ・トゥパキの手下各人の欠落した部分を満たし戦闘意欲を失わせてゆくが、優しさをテーマとする本作の要であるこのパートには少々釈然としなかった。現実にはそうじゃなく暴力を振るう人がたくさんいる、いやそっちの方が多そうだから、何か他のことで表現できなかったのかと思う。