マジック・マイク ラストダンス


「君は何を買ったか分からないだろうが、おれはそれを提供する」とマイク(チャニング・テイタム)に言われたマックス(サルマ・ハエック)が、受け取った「それ」を全ての女性にあげたい、彼には才能があると思ったところから話が始まる。恋愛によって作品が作られるという話を久々に見たけれど、ロンドンのあの劇場のように、マックスが帰る血の繋がらない皆が暮らす家のように、古いものの中に新しい居心地のよさがある。

恋心が膨らみ作品が形を得るに従って様々な事象が表れてくる。女はマイクを持って喋るべきだし、男の心の内を見たくもなる。ダンスの時間と回想の時間が逆に流れるあのときが最高で、それはマックスが「これまでで一番の私になった時」に立ち返っているから。「それなのに皆は私をわらいものに」されようと揺らがない自信が、何度も挿入される、メッセージを受け取った彼女の顔に表れている。同時に別れの予感もどこかするのは、ソダーバーグ映画独特の中途感とでもいうような空気にもよるし、大事なことは他にあるからとも言える。

チャニング・テイタムだけが突出しており後ろの数名はほぼ立っているだけだった(そこに味わいがあった)一作目に比べあまりにもプロフェッショナルなショーの内容に驚いた。ダンサーはダンスで全てを表現するからということだろう、彼らの描写が殆どないのに始め違和感を覚えたけれど、振り返るとマイクの最初のスピーチや女達の声を聞いて理解し「ストリッパー」として全力を尽くす、それだけで彼らが何者か分かるというものだ。

マイクは自身が「マジック・マイク」であることに三作通じて揺れている(これは元来女性に多く振りかかる問題だろう)。「おれたちが王だ」と言う(しかし金は独り占めする)ダラス(マシュー・マコノヒー)の元で働いている時には惚れた女に「おれは『マジック・マイク』じゃない」と弁解していたのが、「客こそが女王だ」とするローマ(ジェイダ・ピンケット=スミス)との再会で「おれは『マジック・マイク』だ」と言い切り、今回の新作では「マジック・マイク」の意味を広げることになる。全く違う要素で話を作りながら後付けかもしれないけれどこうした筋が通っているのが面白かった。