カラオケ行こ!


例えば少年・岡聡実の声変わりを「ついに僕もアレを迎えてしまいました」と繊細に描くところに無知ながらBLらしさ(私にとってこれはBL)を感じていたのが、映画ではこの要素の一番美味しいところを後輩の和田が持って行く。自分も声変わりをすると知らない彼こそが(これもまた、というかこれこそが一番の映画独自の要素である)「巻き戻せないビデオテープ」なのだ。それはBL的というより映画的な面白さであって、見ながら和山やま・野木亜紀子山下敦弘の誰の作品とも感じなかった理由がそこにあるような気がした。

BL的な筋立てを映画的に盛り立て整えた結果、誰の道でもなくなってしまった感。でもその盛り立て方は面白く、例えば冒頭の立て看に目立つ「2019」により、私達にはこれが「コロナ禍に高校時代を送った者」の話だと分かる。「やくざのカラオケ教室」のくだりでは、ただの笑える見せ場だったら白けてしまうと思っていたのが、皆に紹介することが「二人きりの時はドアを開けておく」という大人側=狂児の配慮に見えてきたり歌の練習とは組長云々じゃなく大人が自分自身を振り返る機会なんだと気付かされたり。

序盤のカラオケシーンでふと、やくざだったことはないけれど中学生だったことはあるから、というわけでもなく自然と聡実視点になり、狂児のような男とのこんな日々があったかもしれないと見始めたのが、終盤のカラオケ大会…少なくとも原作では聡実が子ども時代を脱する場面…では大人の目線に戻っていた。理由は説明できないけれどこの具合がうまい。脚本監督の二人と私にとって『紅』は作中の聡実の歳の頃の曲だというのも面白く思ったけれど、いかんせんこの曲が苦手なので、あれこれ擦られてもという困惑は残った。