PLAN 75


オープニングに描かれる三つ、実際に起きた障害者殺傷事件を思い出さずにはいられない蛮行(加害者の「その後」は異なるが)、75歳以上に死を選択する権利を保障するプラン75の成立を告げるラジオのニュースの声、ホテル清掃という肉体労働に就いている高齢女性、これらは今、同じ土壌で進行している現実だと私達には分かる。プラン75に関する詳細についても、支度金が十万円ぽっちなんて!いやありうるな、役所の生活支援相談窓口は早い時間に締め切られるのにプラン75の相談は公園でもってあんな形で行われるなんて!大いにありうるな、などと思わせられる。

現実をかっちり拾い上げる一方で思考を伸ばせる余白も擁している。カラオケ中の仲間内での「あんたもう死ぬ気?」にはマイノリティの自虐ジョークは社会の底が抜けていない時にしか成立しないと気付かされるし、健診会場での「何だか恥ずかしいわね、長生きしたいと思ってるみたいで」には「きんさんぎんさん」が国民的アイドルになったのは当時の日本が経済的に豊かだったからだろうかなどと考えた。ちなみにミチ(倍賞千恵子)達に民間のサービスを金で買う余裕はなくこれらのお喋りは公的な施設で行われている。彼女らは10万円をもらわない限りホテルどころか病院に行くのも控えている。

プラン75関連業務に就く岡部(磯村勇斗)は20年会っていなかった叔父さんと、同じく成宮(河合優実)はミチと話をし顔を合わせ飲食を共にするうち、相手を死なせたくない、死んだとしても「処理」されてほしくないと思うようになる、見ている私達もそれに共感する、その時、一人二人救うんじゃ間に合わないとふと頭をかすめる、これは例えば身内の分の新型コロナウイルスワクチンの接種予約を(他の人々より先にと)取る際に心をよぎった後ろめたさや恥ずかしさと表裏一体、原因を同じくするものである。人々にそういう気持ちを抱かせないよう努めるのが国の役目だと切に思う。

この映画は現状からして大いにありえる可能性(このような制度の成立…それは多くの高齢者を死へ追いやるだろう)とそれを防ぎ得る可能性(異なる属性の者同士の触れ合い…それは世論や選挙に影響しデモなどにも繋がるだろう)とを提示しており、前者より先に後者を私達が、実際にでなくても映画で疑似体験することで国が悪い方へ滑り落ちるのを防げると教えてくれる。そういう意味で大変映画らしい、あるいは正しい映画だと言える。

ミチは「高齢者を働かせるなと投書がきた」との言い訳でもって自分達をクビにした会社であっても去る日にはロッカーを拭き手を合わせるような「よく出来た」(能力という意味だけでなく/現実にいるだろうと思わせる)人物である。フィクションにつき、特に女性の主人公はむしろ「ダメ」でいいじゃないかと日頃は思っているけれど、この物語で重要なのは選択制と謳っておきながらその実、弱者を追い詰めているという点なので(直近の問題で言えば代理出産などもそうだろう)彼女の人物設定はその点において揺れを与えないためかなと考えた。