三姉妹


(以下少々「ネタバレ」しています)

冒頭よりテンポよく繰り出される三姉妹の日常を見ながらなぜか「なぜ、なぜ、なぜ」と思わせられる。彼女らが地を這うような日々を送っているのはなぜなのか。その根源が少しずつモノクロで、やがて鮮やかにカラーで蘇り三人を表舞台に押し出す最後の一突きをする。死後の希望にすがるしかない暮らしだったこと、その因は家長の暴力、というよりそれは家庭内におさめておけと取り合わない社会にあったことが明かされる。次女ミヨン(ムン・ソリ、制作兼)が父親に「牧師様じゃなく私達に謝って」と叫ぶのが印象的、謝る相手を間違ってるだろという例が今、幾らもあるからね。

顔を合わせることの大切さ、あるいは妙が語られているようにも思われた。話の転機となるのがストーリーの中心人物であるミヨンを三女ミオク(チャン・ユンジュ)が訪ねてくる場面。ミヨンは電話での取り繕った口調とは打って変わった声で長女ヒスク(キム・ソニョン)の文句を言うが、それは妹が文句をぶつけられる相手だから、姉が文句の対象にできる相手だから。顔を見たら出来てしまうのだ。それを最初のレッスンとするように解放が進み、ミヨンは少しずつ核心に、言いたいことを言いたい相手にぶつけるという行為に近づいていく。ただし当初それは父親でも夫(チョ・ハンチョル)でもなく夫の浮気相手の女子大学生や自分らの娘といった彼らより、自分より弱い相手に向かう。二人の涙を経てようやくコアに辿り着く。

この映画の特徴は独特なユーモアの、センスというより存在の仕方にある。始めのうちそれは在るには在るが奥底に沈んでいるような、種のままで芽が出ていないような土に埋もれているような感じを受ける。半ばすぎ、ミヨクが家を出た夫の職場に出向いて怒りと개새끼야!(くそ野郎)をぶつけ三女ミオク(チャン・ユンジュ)が夫(ヒョン・ボンシク)の連れ子の面談に出向いて吐いて校庭を駆けると、音楽が流れて物語のステージが進んだことが分かる。それからユーモアが表に出てくる。言いたいことを言えないところにユーモアはない。

しかし死んで天国へ行かせてくれと祈るほどの過去の原因である父親をあれでしまいにする結末には拍子抜けしてしまった(といってどうすることもできないが。被害者とは実にそういうものなのである)。キリスト教所以なのだろうか。ヒスクの娘ボミが恋するミュージシャン、通称「血のうんこ」(ギターのストラップに太極旗を貼っている)も三姉妹の父親も自身の額を自身で傷つけ血を流すが、韓国の男性にとってあれには何らかの意味があるんだろうか。最後の最後が「血のうんこ」のあの歌なのはなぜなんだろうか。私としてはこうした謎が残った。