テルアビブの女たち/ヴィーナス


第27回レインボー・リール東京にて二作を観賞。



▼「テルアビブの女たち」(マイサルーン・ハムード監督/2016/イスラエル、フランス)は、イスラエルはテルアビブのアパートで同居する三人のパレスチナ女性の物語。


自分の体は自分のものだと常に言い立て何らかの形で実践していなければすぐに奪われてしまう三人が並んだラストカットに、私も闘う、助け合う意欲が沸いた。まずは「同居」ものである。作中初めての朝のキッチンに立つレイラとサルマの間の距離は心が通い合っていないしるしではなく、一緒に住むってああいうことなのだと思わせる。後にヌールと並んで座ったレイラが「彼を愛してるの?」と問いそっと手を握る、あれこそが真の触れ合いだと思わせる。ところで今更ながら、もしかして、暴行する奴って、相手が自分を拒否するというアタマが無いのだろうか。ヌールの婚約者がしきりに「こいつらの言いなりになるな」と言うのは、そのような人間関係しか頭にないからだろう。


めったにない程ヒジャブの描写が丹念な映画でもあった。冒頭ヌールを待つレイラとサルマが「遅いね」「髪を隠すのに5時間掛かるからね」と冗談を言い合う場面があるが、実際後にヌーラがヒジャブを着ける様子が結構な長尺で挿入される(昔旅館の布団カバーに見たような白いピンを使うの、知らなかった/ちなみに時に長々と撮られているヌールの行為からは、彼女が何かをいわば消化する時間が伝わってくる)。ヌーラの婚約者が暴行の際にまさぐったり、レイラが変装するのに着けて「よく聞こえない」と言ったりという描写もこれまであまり見ないものだ。


▼「ヴィーナス」(エイシャ・マージャラ監督/2017/カナダ)では、インド系のシドの元に息子と名乗る少年が現れる。それを機に、シドは「脱げない衣装を着ているよう」だった外見を自分の思うように変えることにする。


シドが「お母さんが望んでるのはお母さん自身の幸せ」と責めると母は「それの何が悪い、私には不幸が似合うって言うの」と返すが、父親の言う通り、実はシドと母親は「思った通りのことを口にする」点で似ている。この物語は、人は皆、自分の幸せを求めているという話なんである。シドに「なぜ戻ってきたの」と問われたダニエルの「君が恋しくて」だってそう。誰だって自分の思うようにしたい。それをどう、誠意を持って通していくか、あるいは引っこめるかが問題だ。


シドが、「本当の髪に触りたい」とウィッグの下を探ろうとするダニエルを「伸ばしかけだから」と拒否するのは、「エヴァ」のイザベル・ユペールが「化粧をしていない方がいい」と言われるも「そんなことない、ひどい顔」と素っ気なく返すのに似ている。自分の外見についての判断は自分が下す。加えて印象的だったのは、14歳のラルフが自らにインドの血が流れていると知るやインド料理を食べたがったりインドについて調べたり、父親が「トランスジェンダー」だと知ると「かっこいい、有名人なの」と何度も口にするところ。人々はこうして、自分の興味や欲を他人のそれと「調整」していくのだ。