ペルシアン・バージョン


東京国際映画祭にて観賞。2023年アメリカ、マリアム・ケシャヴァルズ監督作品。

冒頭、主人公レイラ(レイラ・モハマディ)が『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』のヘドウィグ(を日常的に演じている男性)とまぐわいながらこちらに向かって語りかけてくるのに、今や見慣れたこういう技法も大事なのは使い方でありどんな人が何を話してくれるかだよなと見始める。街を行く母親の心境を娘が語る場面で、当初「昔の人だから」としか紹介されない母の歩んできた苦難の道のりを順に遡って私達に教えてくれるんだと分かった。

母の人生がいかに大変で引き返すことなど出来なかったかという象徴が兄の一人ヴァヒドの存在だから(あれ以外の選択はあり得なかったわけだから)、ラストが「ママありがとう」と言われる結婚式なのもベタだけど仕方ない。ただ私としては、「8人の兄」!と見始めた本作で避妊を口にするのが彼を産んだロヤだけというのが何とも悲しく引っ掛かった(レイラは母の口を借り「浮気」して子を作った父の生い立ちまで踏み込むが、彼女については、分からないから何も語らない)。

「イラン人は破産しない」「イラン人は借金しない(ローンを組まない)」というので4万ドルで入手した病院を手放し医療費を工面するくだりで予感していたら、後に母は高校卒業認定試験を受け不動産仲介の仕事に就く。進学したくともできず13歳で結婚させられた女性が経済的に自立する、この辺りに作中一番心が熱くなった(怪我の賠償金の振込先を…のくだりなど好き笑)。アメリカ映画を見始めた80年代より女性の登場人物には不動産業が目立つなと思っていた、その答えが描かれているとも言える。たまに映画で映画の答え合わせをしているような感覚になることがあるけれど(かつての映画が表面であれ「正しい」わけではないけれど)、それは語る機会を持たなかった人達が語り始めているからだろう。

物語はレイラが「娘の母」になるところで終わる。結局それかと思うが、性的な仲じゃない、友達という認識の相手と(結婚せずとも、かりにしても)共に親になる、出産は怒りに似ている、怒るくらいじゃないと子はひり出せない、などこれまであまり描かれなかった新しいことがプロライフ的結末のエクスキューズにされているというより、逆にそれらを活かすための出産シーンかなと考えることもできなくはない。