それでも私は生きていく


映画はサンドラ(レア・セドゥ)が大きく分厚い扉の向こうに一人暮らすゲオルグパスカル・グレゴリー)を訪ねるのに始まる。レイラ(フェイリア・ドゥリバ)から連絡があるかもと電話を手放さない父と、クレマン(メルヴィル・プポー)が何か言ってこないかと仕事中にも夜中にも確認する娘とがやがて重ねられていく。その所以は母フランソワーズ(ニコール・ガルシア)の言う「家族は記憶を刺激されて辛いから」かもしれないし、sexとbiteから導き出されるexitかもしれない。

終盤ゲオルグの手記を読んだサンドラが内容を思い起こしながら歩いて父親に会いに行く、すなわち(後でそうと分かることに)自分の中で父の肉体と魂を一致させに赴く場面が素晴らしい。それぞれの道はやはり違うとも取れるし自身もゆく道なのだとも取れる。

色々な相手と色々な関係を保つには多少の嘘が必要となる。電話に出ない、地下鉄のせいにする…レイラの「渋滞で遅れた」もおそらく。しかし多くの場合、関係は他の関係と繋がれることになる。「大好きなママ」とベッドに入ってきた娘リンに「クレマンがいるよ」と裸の彼を見せる、あの時の安堵感と妙味。映画はある晴れた朝、ある関係が広がった後、足の痛みなど無かったかのようにリンが階段を駆け上っていくのに終わる。

登場する全ての人が見事な書棚を備えている。「本人より本棚にパパを感じる」と話して「自分で書いたんじゃないのに?」とリンに返されたサンドラは「自分で選択したから、要は肉体と魂(今のパパは肉体だが残された本は魂の意)」と言う。作中最後に会ったゲオルグがこざっぱりした部屋で「でもここは偶然来た場所だろう?」と言うところからして、この映画で施設の老人たちが迷うのはそこに自身の選択や痕跡がないからとも思われる。

捨てるくらいなら燃やせば?引き取ってよ、とサンドラに憤慨されたフランソワーズが元夫の本、すなわち彼の人生を引き取るのをあっさり拒否するのがいい。彼女には彼女の書棚があり、魂を受け継ぐのは家族でなくてもいい。何かというと見聞きしたニュースや記事を引き合いに出す、身内より社会に関心のある彼女には似たようなパートナーがおり、クリスマスの晩に二人の社会運動がガチだったと判明するのが最高で、ハンセン=ラブのこういうセンスは好きだ。