ミツバチと私


洗濯物を干しながら母アナ(パトリシア・ロペス・アルナイス)とその母リタ(イツィアル・ラスカノ)が話す場面に、子どものころ一番嫌だったのは自分の見えないところで家族に自分の話をされることだったと思い出した。多くの面でマジョリティであり、付けられた名前をアイデンティティにできるほど恵まれていた私でさえも。この映画でも主人公「アイトール」(ソフィア・オテロ)はベッドなどで大人達が自分について話しているのを聞くが、どれだけ辛かろうと思う。

しかしその後のアナとその姉ルルデス(アネ・ガバラン)のやりとりには嫌な思いを呼び起こされない。「アイトール」がどうこうではなく、どう「アイトール」に向き合うべきかという彼女ら自身の問題について話している…そちらに向かおうとしているからだ。作中ではこの態度を「見て見ぬふりをやめる」とのセリフで表現している。相手ではなく相手を見る自分こそを見ようということだ。

これがアナの亡き父に対する態度と重なっているのが面白い。娘の彫刻作品につき「かわいいな」としか言わなかったという父による「シルフィード」は端的に言って女性嫌悪の象徴だが、それに対し母は目をつぶって金銭を得、アナは久々の実家で初めて向かい合う。しかし困窮している彼女は職を得るために「シルフィード」を利用してしまう。採用の電話を受けるショッピングモールの一角が水着姿の若い女性の写真に囲まれているのには社会の何たるかが表れており(この映画で「社会」を感じさせるのはこの場面だけ)、またこちらにカメラを向けている女性は「見る」我が身こそ振り返れと言っている。

突然里帰りした理由を何気なく聞き出そうとするリタと「工房使っちゃいけないわけ?」と苛々するアナの母娘がそれでもおやすみと固く抱き合う姿からは、食い違いがあっても愛し合っていることが伝わってくる。それはたまに現れるだけ、終盤自分の子につき「見つかれば名前なんて何でもいい」などと言ってのけるアナの夫だとてそうなんだろう。愛があろうと人は人を傷つける(だから愛なんてものに甘えちゃいけない)と私は取りたい。