わたしに会うまでの1600キロ



アメリカのPCT(パシフィック・クレスト・トレイル)を一人で歩き通した女性、シェリル・ストレイドの手記を映画化。


オープニングはリース・ウィザースプーン演じるシェリルが不安定な岩場で登山靴を脱ぐ場面。貼り付いた靴下を剥がすと血塗れの足が現れる。のっけから「痛い」。それにしてもそんな場所で、と思っていると危惧していたことが起こり、彼女は叫ぶ、「Fuck you, bitch!」。幾つかの、切れ切れの「過去」、そしてタイトル(原題「Wild」)
「歩く」だなんて、やらなければ労苦も危険も何も無い。それでも「彼女が」歩くのは何故だろう?道中、例えば大きな石を乗り越えた時に思わず笑みがこぼれる、そういうことかなと思うけど、少し違う。結果的には最後に分かる。親身になってくれる友達、彼女が歩くことにつき「I'm sorry」と言う元夫、「1時間10ドル」を受け持つセラピスト、どんな人が周りにいようと、自分で何かしなきゃ得られない心の在り方がある…ということが分かる。


この映画、音楽の使い方(「選曲」にあらず)が独特で、例えば冒頭、宿においてウイングスの「Let 'em in」が流れるんだけど、「BGM」には聞こえないが、どういう事情で(隣室の人が流しているとかね)聞こえてくるのか分からない。次第に慣れてきて、全てが「回想」なのだから、全ての音楽はシェリルの心の中に流れているのだと思う。
かすかに繰り返されていた「コンドルは飛んでいく」が、初めてはっきりと流れる場面が素晴らしい。歩き始めた彼女は少しずつ、折に触れ「過去」を「再生」していく。一度に思い出すのは怖いとでもいうように。母ボビー(ローラ・ダーン)が口ずさんでいた「コンドルは飛んでいく」だって、急に再生したら心が壊れてしまうかもしれない。しかし、歩いて歩いて、とうとう「過去」の中でも一番大きな「母の死」を再生した後に、「コンドルは飛んでいく」も大きく蘇る。それこそ、死んでしまった爪を少しずつ、最後に思い切って剥がした時の叫びのようにも聞こえる。


シェリルと亡くなった母との愛は、「女同士の愛」である。共にフェミニストだがそれぞれ異なるフェミニスト同士の愛、といってもいい。娘と同時に大学で学ぶ母がレポートに取り組んでいると、帰宅した弟が夕食をせがむ。シェリルは「もう18なんだから自分で作れる」と言うが、母は「勉強と家の仕事を両立したい」、弟は「したいと言ってるんだからいいだろ」。作中の彼女も見ている私も歯がゆいところだけど、シェリルは歩くことにより、そうした母を受け入れる。彼女の一番最後の引用は、自分は嫌いだった、母の好きだったジェームズ・ミッチェナーの「人生は驚きの連続」という言葉である。
出発前の宿にチェックインする時、テレビ?からO・J・シンプソンに関するニュースが流れ、この物語の舞台が90年代半ばだと分かる。中盤にはジェリー・ガルシアが亡くなる。それ以外に「時代」を表す要素はほぼ無い。しかしシェリルと母の「フェミニスト」としての在り方にどこか「時代」を感じ、フェミニズムの歴史を知っているともっと面白く見られるのではと思う。


PCTの挑戦者に女性が少ないこともあり、シェリルが出会うのは殆どが男性ばかり。「女」は自分の環境内の「男」に影響を受けざるを得ない、ということが描かれているようにも思う。「フェミニスト大好き」なうざい男(どんな人間だってうざい奴はいるという、当たり前のこと)「勇気あるね〜」って、お前みたいなやつがいなきゃ必要な勇気の量は随分減るよ!って男、子どもみたいな話ばかりして最後には彼女も吹き出させちゃう男の子達。彼女に対しての態度じゃないけど、常に身支度に忙しい男性も「いかにも」だ。
実はこの映画で唯一涙がこぼれたのは、最初に出会った初老の男性とのやりとり。うちでシャワーでも、と言う彼に対し「先に夫が居る」と彼女は嘘をつく(それを受け、彼は自宅に妻が居ることをさりげなく口にする)。帰りにそのことにつき「あれは嘘だろ?」「ええ、怖かったから」「分かるよ」。ここでなぜか泣いてしまった。


一度だけ描かれるセックスは、明らかに「過去」のセックスとの対比として在る。リースの「満ち足りた」としか言い様のない顔。歩き始めの頃に上げる金切り声も「セックスの時の声」に聞こえなくもないけど(「姿」を映さないことで意図的にそのように見せていると思う)、この場面に至り、いや、セックスの時に出るのってこういう満足の声だよなあと思い直す。
話は少しそれるけど、それにしても、うんこはよくても生理ネタはタブーなのかと思う。だってこの手の話を聞いてまず思うのは、生理の時は大変だったろうなあってことじゃない?原作では触れているのかな。