ナショナル・シアター・ライブ 2020 「フリーバッグ」


「ナショナル・シアターが厳選した、世界で観られるべき傑作舞台を、こだわりのカメラワークで収録し各国の映画館で上映する画期的なプロジェクト」(日本公式サイトより)というナショナル・シアター・ライブを初体験。元となっているドラマも未見(これから見るつもり)。
まずは芝居、しかも一人芝居をスクリーンで見るというのに慣れるまで時間が掛かってしまった。一人の人間による舞台というならテレビで見るNetflixのオリジナルスタンドアップコメディの数々の方が余程「映画」っぽい。冒頭の小芝居、カメラワーク、何より客を映してくれるのが画面の中の見世物として自然に感じる。スタンダップならではなのか演者とのやりとりも楽しい。一方こちらは客層が分からないばかりか笑い声からくしゃみまで客席の反応の気配はすれど全く映らないので奇妙な感じがした。

何か所もで声を出して笑い、気持ちもすんなり乗って楽しく見たけれど、終盤虚を衝かれた。フィービー・ウォーラー=ブリッジによる主人公フリーバッグの「叫び」にである。
彼女はBad Feministである。銀行員と寝ないのは「よくないことだから」、五年間と引き換えにしても「完璧なボディ」が欲しい、痴漢されても「奢ってくれたからいい」等々「フェミニストとは言えない」部分が多々ある(SNSなどを見るにまだ世にとんでもない間違いが溢れているようだから書いておくけれど、よくよくオナニーやセックスをすることとフェミニストであることは全然両立するので、それは違うからね)。この作品は彼女の氷山の上部のうちでもそうした部分を強調し、最後に叫びという形で下部、社会の何がそうさせているかを訴える。上部だけでは意義が無いのは分かるけれども、それでもやはり、私は女がセックスする理由(のように取れるもの)を描く作品は好きじゃない。女がセックスするのには理由があるのだという先入観が消えることの方が先だと思ってしまうから。

自分含めて人は当事者じゃない物事には相当鈍くなるから、終盤の彼女の叫びを聞いても、ある人達は、あの苦痛を解消するために自ら出来ることがある…色々あるよね、まず自身のエイジズムを見直すとか…とは露ほども思わず、つまり作品と自分とが繋がっているとは思わず、女って大変だなあで終わってしまうんじゃないかという危惧もある(そういう部分に自分が介入する権利はないと分かっちゃいるけれど)。それならまだ、フリーバッグの氷山の上部だけが流通して色んな女がいるという当たり前のことがまず世に浸透する方がいい。
しかし叫びなしで表面の言動だけを見せると、先に書いたフェミニズムからはみ出た部分をいいように使われてしまうんじゃないかとも思う、そういう悩ましさがある。結局のところこういう問題は一つの作品、一人の人間じゃなく、色んな作品、大勢の人々によってカバーされるべきものなんだろう。