ポルトガル、夏の終わり


始まると黒いスクリーンにクレジットが出てまず音だけが、という映画はよくあるけれど、ここでは白に黒字。眩しさに、目を覚ましてよく見てねと言われているようだと思った。

私が確認したのは、時間と場所を共にする時、人はそれぞれ局面を持ち寄っているのだということ。大抵は自分の局面であるが、原題である「フランキー」(イザベル・ユペール)に自分の局面は無く、それゆえ他人の局面が心にある。また彼女を愛しているため自身の局面を持たない夫のジミー(ブレンダン・グリーソン)のような者もいる。二人が一体であろうとするベッドシーンは彼に「フランキーの後」が無いことの比喩のようだった。事前のボタンを外すシーンがいい。

序盤、数人の中からフランキーがふと離れて森の中へ入っていくシーンに、この他人事感、と思っていたら、この映画は次に彼女が一人歩く姿をきちんと見せるのだった。オープニングのプールサイドからフランキー、また皆の靴が印象的で…というのは、どんな靴を履くかはその人がどのように歩くかを表しているから…ジミーと親友の(マリサ・トメイ)は彼女を支えるためにスニーカーを履いているようだと思った。

私がホン・サンスの映画を見なくなったのは、セックスにこれが無ければ楽しいのになあ、と思うその要素が彼の映画を見ると頭の中から引きずり出されるからで、アイラ・サックスの映画にこれまでそれを感じたことはなかったんだけど、この映画には少しあった。厳しくする相手、甘くする相手を間違えているんじゃないかとでも言うような。