母の残像



とても面白かった、陳腐な言い方だけど「優しい」映画だった。
イザベル・ユペール演じる母を亡くした後の男三人、boysが、それぞれの世界を生きている。それらがぶつかり合い、爆ぜ、触れ合い、後に分かれるとしても、ラストシーンで一本になり前進する。この時には当の「母」も一緒である。父親ジーン(ガブリエル・バーン)いわく「出来た人間じゃないから馬鹿をしてばかり」だけど、彼らが愛しくてしょうがなくなってくる。大体私はもっと馬鹿だし!


冒頭の病院での一幕で、長男ジョナ(ジェシー・アイゼンバーグ)がかつての恋人エリン(レイチェル・ブロズナハン)に「妻が…」と言いかけ躊躇すると、彼女は病気だと勘違いして彼を抱き締める。おそらくそれは、母を亡くしたばかりの彼女が「死」に近いからなのだ、そう思った時、この映画に引き込まれた(そして中盤、彼が「真実」をいまだ告げられずにいることに、更にぐっときた)。
これに似ていると私が思ったのが、二男コンラッド(デビン・ドルイド)が授業において、同級生の、読み間違いまでする稚拙な朗読に生々しい映像を思い出したり想像したりするくだりで、それは彼が彼女が好きだからなのだ。ちなみに終盤の帰り道でのあのお喋りは、読み書きが多分「上手くない」彼女にとっての、彼のあの文章にあたるのかもしれないと思う。



「あなたのお母さんは壊れやすい人だった」
「事故のことを知らない時にもそう思ってた?」
「それは無いかな」


これは「記憶」についての物語である。冒頭の国語の授業でもそれに関する文章が扱われている。一つの記憶が、主の成長に伴い、あるいは何らかの介入により、姿形を変えてゆくことがある。その時に人は、記憶の中の相手との関係を更新することが出来る。母の死についてあることを伏せられていたコンラッドだけでなく、既に「大人」だったジーンもジョナも、数年後の「今」またそれを行う。
最後にコンラッドが「僕も一緒に同じママを見てた」「(それなのに「真実」を教えてくれなかったなんて)僕はそんなに話しづらい(difficult)?」と涙ながらに言うと、父親は(兄や恋人に言ったように「コンラッドがまだ12歳だったから」という「理由」ではなく)「私だって難しい人間なんだ」と返す。これが優しさでなくて何だろう。


冒頭リチャード(デヴィッド・ストラザーン)が、イザベル(イザベル・ユペール)の写真作品(それはWikipediaにも載っている代表作である)について「彼女は右側をトリミングされすぎたと嘆いていた」と言う。コンラッドは「母さんはトリミングの威力を教えてくれた」と綴る。この物語は父と兄が弟に、「母親」という写真の一部を切り取って見せないようにしていた話だとも言える。ナンセンスな物言いだけど、当の本人が知ったらどう思うだろう?ともあれ男達によってトリミングされた女、に「女優」であるユペールはぴったりじゃないか。
「離婚して一緒になりたかった」と告白するリチャードは、同じ「帰る家を持つ戦争写真家」としてイザベルの気持ちを語る(作中ではユペールの声で語られる)が、これは実際に彼女が口にしたことか、彼の想像か。彼は自分も同じだったと続ける。「同じ」であっても「一緒」になれるものではない。


ジーンがコンラッドの国語教師ハンナ(エイミー・ライアン)とベッドに居る場面で、夫や妻が遠地にいる時にはそういうこともあるかもとふと思い、しばらくしてそう思った自分にびっくりした。これはイザベルが亡くなった後のことなのだ(そしてこの映画は「分かりにくい」映画じゃ全然ない)。イザベルが「生きて」しまっている。
もう一つ不思議なことに、母亡き後の三人を見ていると、「長男」「二男」「三男」という言葉が頭に浮かんでしょうがなかった。ジーンはイザベルの留守中、家庭を守り子を育ててきたというのに。


戦争写真を撮ること(自身にとっては「戦争の爪痕」を撮ること)は「自分の責任」だと考えるイザベルが、「私の作品は彼らの気持ちを代弁しているだろうか」「それとも彼らを利用してもっと大きなものを表現すべきだろうか」「でもそうすると彼らの物語が消えてしまう」と惑いながら撮影した写真は、新聞に「救いを求めるアフガン難民」との見出しで掲載され、空港の男性は一瞥して紙をめくる。このくだりには、物を作る仕事をしている人達の心中を垣間見るようだった。
職業と言えば、教師から役者になったガブリエル・バーンが元役者の教師だという設定も面白い(ベッドで年老いた体を気にするのはそのためもあるんだろうか?)。作中そのことが明かされる前に、イザベルの夢の中でタバコを吸っていたと聞かされ、こんなふうか、それともこんなふうかと幾通りもやってみせるのがやたらうまくて不思議に思っていたら、あれは「『芝居をやっていた人』が演技をしている演技」なんだな(笑)