ビリギャル



この映画、名古屋が出てくるんだって〜と教えられ観賞。見終わってすぐ、どうだった?と聞かれ「名古屋映画じゃなく名古屋が舞台の映画だね」と言ったら笑われてしまった。いやそりゃあ、そういう映画なんだから、それでいいんだけども。
冒頭に早速プリンセス大通りが。私が高校生だった20年以上前、あの辺りにはカラオケやらディスコやらたくさんあって、やっぱり学校帰りに遊んでたから、懐かしかった。


映画は上京する主人公が新幹線で一人、故郷の土手を越える辺りで終わる。私なんて一人っ子だからか両親が東京まで着いてきたものだけど、あっさりしてて羨ましいと思う。
作中の彼女が佇み行き帰りする土手、あの川は恐らく私の実家の近くも流れている川。あの辺りからは遠くに名駅の高層ビルが見え、川を一本渡るごとに都会(名古屋市中心部)に近付く。目に見える都会(名古屋)と見えない都会(東京)とがあり、私もそうだけれど主人公も「都会」に出る度に少しずつ楽になった…はずなんだけど、この映画には「名古屋」や「東京」に対する思い入れのようなものは一切無い。その拘りの無さも「両親が着いてこない」ことに繋がってるんだな。


見ながらふと「リテラシー」という言葉が思い浮かんだ。伊藤淳史演じる塾講師がやりとりの後に背後の本棚から適した本を抜き取って渡す、あの画がよかった。彼の「脳内」をそのまま表しているようで。
また映画の中における「肉筆」を見るのが好きな私としては、主人公と先生、二人の筆跡が出てくるのが楽しかった。役者さん本人が書いたのかな?どちらもいかにもあのキャラクターが書きそうな文字だった。あんな「受験英語」的な筆記体って!


それにしても、「現代」を舞台としながら妻が夫に敬語で話す映画を見るのは嫌なものだ。そういう家庭もある、とかそういう話じゃなく。この前に見たのが「暴力を振るわれているままじゃいけない」と大人が子どもに教える「私の少女」だっただけに余計、主人公の家庭の描き方には苦痛を感じた。