すべてうまくいきますように


映画の始め数秒にだけ存在した「日常」が、電話を受けて以降ラストシーンまで失われる。「動けなくなった」父親に娘が振り回される話である。振り回されて飛び回っているのに、いやそれゆえ運動で体を動かさずにはいられなくなるのが面白い。父親が終盤「小説家のあいつには今回のことはいいネタになる」なんて言うのには笑うしかない。

エマニュエル(ソフィー・マルソー)の回想では、少女の頃の彼女は父親のアンドレアンドレ・デュソリエ)に馬鹿だの食べすぎだのと言われてばかりだが淡々とやり過ごし物を食べる手を止めることもない。数十年後の現在の二人の関係は馬鹿だ何だと言われていたとは思えないようなものだが、この映画はいかにもそうなりそうだと感じさせる(彼女が「努力」したからではない、それならがっかりだ)。「感傷的な人」につき人情的な見方をすれば、「いつも批判していた」ブラームスを最後に聞いたと言うんだから好きなものに当たり散らす人だったのかもしれない(私はそんな人はごめんだけども)。

「父の言うことは誰も拒めない」ってそんなことあり得ないのに、でもあるのだ、エマニュエルにとっては。シャーロット・ランプリング演じる妻クロードの「愛してたから。馬鹿ね」なんて一言からしても、これは家長としてではなく魅力で妻や娘を支配していた男の話であり、あまり見たことがない類の映画だと言える。その彼も年下の恋人に暴力を振るわれ怪我をしても黙って流していた過去があり、筋の通らない数々の気持ちが作品を支えている。

エマニュエルが全てを引き受けるのは、父親が「お気に入りの『息子』」である彼女に頼んだからというのもあるけれど、姉だから。妹パスカルジェラルディン・ペラス)とお互いビールの「口ひげ」ができれば教えるだけじゃなくそう言いながら拭ってあげる側の人間だから。それゆえ妹は部屋を飛び出して行くことができるし、当初「当日は子ども達と一緒にいなきゃ」と言っていてもそれを翻す(エマニュエルはそういうことはしないだろう、多分)。

「病院から脱走する」要素のある映画は多々あれど、ここでは求める自由が死なのだから面白い。通報され病院側に見つからないよう抜け出すあたりなど特にサスペンス映画の空気が漂い面白かった。エマニュエルは知り得ない、目覚めたアンドレが窓の外の景色を見る場面が素晴らしく、あそこでやっと息がつける。

『PLAN 75』では最後に出てくる架空の施設で外国人が働いていたものだけど、こちらでは実行の場までアンドレを運ぶ救急隊員が移民であり(道中それゆえのある問題が起こる)、到着した先ではお金を払った対価としての看取りを受ける。ちなみにエマニュエルがスピーカーにせず一人で受け止めた最後の電話の場面で普通なら映らないであろう相手が再度重量を持って登場するのは、演じているのがハンナ・シグラだからなんだろう。