コンパートメント No.6


「女が旅先で愛する女の嫌な部分に気付き、致し方なく同室になったいわばマッチョな男に惹かれていく」という冒頭で読めるストーリーに疑問を抱きつつ見ていたら、「売春しに来たの?」などという、そのストーリーになぜ入れたのかと思う男のセリフに不愉快になる……も、後に触れる主題が見えてくると面白くなってくる。エンパイア誌の批評で引き合いに出されていたリンクレイターの「ビフォア」シリーズのように話が続いたならふざけてんのかと言いたくなってくるに違いないけど、この物語はあれで終わりなんである。

オープニングのパーティでモスクワにいる理由を問われたフィンランド人のラウラ(セイディ・ハーラ)が考古学や言語学を学んでいると身分を明かすと、大学教授(に恐らく類する職業)の中年男性いわく「我々のルーツを知るのはいいことだ」。その言葉は「でもイリーナ(ディナーラ・ドルカーロワ)に出会って…」を遮ってのものであり、ここでは実際的な愛、もっと言うなら自分自身、今現在が重要視されていないのだと分かる。だから彼女は居心地が悪そうなのだと(加えて、とりわけ言語について学ぶ時、教材そのものだって既に権威なのだと思いながら見た、この場面は)。

ラウラが愛したイリーナは仕事を理由に旅行をキャンセルする、監督の前作『オリ・マキの人生で最も幸せな日』のオリとは真逆の人間である。電話でもつれない恋人への「あなたがすごく遠く感じられる」の一言から、ラウラが求めているのは直接的に相手を感じることだと分かる。そもそもイリーナが見るといいと言っていたペトログリフは「(彼女達のような)考古学者はヘリコプターで行く」ことができても「一般人」には凍てつく冬には向かう手段がないのだった。このエピソードの何と地に足のついていないことか。

一方で同室となった「一緒にいることを強制させられるパートナー」、ロシア語以外は解さないリョーハ(ユーリー・ボリソフ)はロシアは最高だと言いながら目的地にあるペトログリフは知らず、鉱山に働きに行くと言う。当の町に着いた時に彼女が車窓に見るのは確かにその、いわば現実のロシアであった。彼の言動は私にはつきまといにしか見えないが、触れ合いを求めるラウラは彼に惹かれ、子ども同士のようにじゃれ合う。ここに居るのは「男と女」じゃないということを表しているのかもしれないけれど、誰しもそこから逃れられないのに呑気なものだとも思う。

前世紀が舞台の多くの映画にそう感じていいはずなのに初めて思ったことに、ということは恐らく意図的に演出されているだろうことに、ラウラのすること、音楽を聞く、動画を撮る、見る、電話を掛ける、今なら携帯電話一台で全て済む。それさえ肌身離さず持っていればビデオカメラだけ盗まれるなんてこともない。『オリ・マキ』は更に以前の話だったけれど、監督はそういうときならではの物語が描きたいのだろう。