5パーセントの奇跡 嘘から始まる素敵な人生



完璧な映画じゃない。でも、「一人じゃ何もできなくたって夢を諦めない」ということを明るく肯定的に描く、これが成熟ってことだと思う。とても面白かった。


舞台が「ドイツ」の「ホテル」であること、最後に物語がそこから出ることにも大いに意味がある。スリランカ人とドイツ人の間に生まれたというサリー(コスティア・ウルマン)が、(好意的に取れば、くそ忙しい場においては)「カワサキ」なんて雑に呼ばれたり、(日本人よりは「近い」と思われる)「インド人」と言われることに嫌悪感を示したりするという描写もいい。
友となるマックス(ヤコブ・マッチェンツ)も始めは「お前、インド人のレインマンか?」なんてことを言うが、人間関係は取り返せる。一方でサリーが一目惚れならぬ一聞惚れしたラウラ(アンナ・マリア・ミューエ)は、ちょっとしたことを聞いて彼がスリランカ人だと分かる。


作中何度もサリーの視界と聴界、とでもいうものが映画ならではの(しかし限界はある)やり方で示されることで、彼の生きる世界が伝わってくる。人の世界はそれぞれ違うのだということが分かる。その違いとは、見方を拡げれば、人が二人からいれば必ずそこに生じるものだ。
世界が違うなら世界の構築の仕方も違う。普通学校を卒業せんと努力するサリーは、数学の授業中、隣の席のクラスメイトの助けじゃ間に合わず、自分が音に鋭敏になったと気付いて教師の言葉をシャドーイングのようにその場で繰り返して自分のものにするようになる。自宅では高速聴解とでもいうような学習に励む。その姿にクラスメイトや母親が触れる場面が面白い。


音に鋭敏になったサリーは、ラウラの声に惹かれる。マックスに容姿を教えてもらいはするが、まず彼女が生じさせる音に惹かれる。彼女じゃないセックスの相手は耐え難い声や音をたてるし、レストランではラウラこそが心地よい音で近付いてくる。デートの最中に入店してきた美女に男達の視線が釘付けになる中、サリーだけが目もくれなかったことで「点数稼ぎ」するという「笑えるシーン」につき、もし見えていたら目をやるのだろうか、なんて考えるのはナンセンスだ。
この映画は私達に「事情を言うか、やめるか」を勧めてくる。この意味ではサリーにとっての夢である「ホテル」と「ラウラ」は重なっている。「ずる」をしてとっかかりを作るのは良いが、そこから先には責任が伴う。しかし正直に話し出来る範囲で責任を負うことで、ルーペだって堂々と使えるようになるし、「私の二つの目」も借りられるようになる。


逃げてばかりの父親が、そうは言っても家族、というんじゃなく(こちらからの縁切りではないにせよ)本当にくずだという設定もいい。事前に流れた「アバウト・レイ 16歳の決断」の予告編の「家族だからやり直せる」というナレーションは無神経が過ぎる、「やり直せるのが家族である」べきだろう。
文章というか日本語のことを言うなら、マックスへのサリーのセリフの字幕を「女をお持ち帰りしたんだろう」としていたのは引っ掛かった。ドイツ語は分からないけれど、マックスの行為やサリーの感覚はそんなふうに表されるものじゃないはずだ。良かった字幕はマックスの「俺はゲスじゃない」。元の言葉と日本語とを擦り合わせたら単にこれしかなかったのかもしれないけれど、この映画ってまさに、ずるはしてもゲスいことには否定的なんである。そこが大事だから、振り返るといいセリフだったと思う。


事情によりアルバイトにまで追われるようになるサリーは、「『キングスマン ゴールデン・サークル』のエミリー・ワトソン」でもあった。あの顛末だって、彼女の視点で描かれたら、問題は薬をやる当人じゃなく外にあるのだということがもっとはっきり分かるだろう。線引きしちゃいけない、違うところに目を向けなきゃならないと。
サリーに厳しく当たる教官クラインシュミット(ヨハン・フォン・ビューロー)の存在もいい。彼は最後に「君には驚かされてばかり」「ホテルの仕事については自信があったが、それが揺らいだ」なんて言う。「一人じゃ何もできない」人間を受け入れることで、いやそれは誰だってそうなのかもしれないけれど、受け入れた側も変わる。自分が当たり前と思っていることにつき、見直してみなきゃという気持ちになった。